Part6
113 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:10:36 ID:
fda7aQIA
何かの虫が、どこかで鳴いている。耳障りな羽音が、鼓膜を揺らす。
遠くで、犬が吠えた。ぬるい風が葉を揺らし、乾いた音をたてる。青い匂いがする。
彼女が息をする音が、僕の耳元で聞こえる。彼女の匂いがする。
もう少し、こうしていたい。
と、思った矢先、彼女は「帰ろうか」と言った。
「もう帰っちゃうのか」思わず僕は零した。
「だって、蚊が多い」彼女は空いた右手で宙を扇いだ。
「ロマンチックも糞もないことを言うね」
「糞とか言っちゃうような人に言われたくありませーん」
「それもそうだ」僕は頷いた。「じゃあ、帰ろうか」
「うん、帰ろう」彼女も頷いた。
114 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:11:10 ID:
fda7aQIA
しかし、彼女が僕の手を引いて歩き出したとき、
僕は自分の置かれていた境遇を思い出してしまった。
そいつは脳の奥にしまっておいたそれを、無理やり引きずり出した。
背筋に冷たい汗が流れる。
眩暈がするほど息苦しい。歩くことができない。
僕は彼女の手を握りながら、その場に留まった。
同時に頭の中で、どうやって茶化そうかと必死になって考えた。
「どうしたの? 震えてるよ」
いつか来るとは分かっていたが、どうして今なんだ。
「ねえ、大丈夫?」
いや、今まで“もっていてくれた”ことに感謝するべきなのかもしれない。
115 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:12:13 ID:
fda7aQIA
「あのさ、良いニュースと悪いニュースがあるんだ」
僕は声を絞り出した。「とりあえず、こっちを見てくれ」
「どうしたのよ、いきなり」
彼女は訝しげな表情を見せながらも、身体を僕のほうへ向けた。
彼女の言葉を無視し、僕は続けた。
「まずは、良いニュースから。僕は今から、君に抱きつく」
時間がない。もう倒れる。
身体のバランスは崩壊した。
「え?」
「それと、悪いニュース」僕は絡まった指を解き、
正面から彼女に抱きつくように、倒れこんだ。「右脚が動かなくなった」
116 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:12:46 ID:
fda7aQIA
「なによ、それ」彼女は僕を受け止め、小さく呟く。「なんで今なのよ」
「ごめんよ」声はほとんど出ていなかったが、顔が彼女の肩に
乗っかっている状態なので、これ以上声を張り上げる必要はなかった。
聞こえているはずだ。僕の声が。
「肩を貸してくれないかな」僕は続けて言う。
「そんなもん、いくらでも貸してあげるわよ」
「ありがとう」
「だから、もうちょっとだけ、この体勢で我慢して」彼女は僕の身体をきつく抱きしめた。
痛くはない。むしろ心地良かった。
だから僕は、「分かった」と答えた。声が震える。
「ごめんね」と言う彼女の声も、震えていた。
117 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:13:18 ID:
fda7aQIA
*
僕らは、いったいどこまで行けるんだろうか。
118 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:14:05 ID:
fda7aQIA
続く
119 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:16:03 ID:e5tFmWHc
ダメだ、もう泣きそうだ。乙
122 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:52:40 ID:
zmKypy7U
4
僕の目が正常だったなら、頭上の空は真っ青のはずだ。
きっと雲ひとつ無い、澄んだ青空なんだろう。
僕の出来損ないの目を通してみると、灰一色だったが。
高いところで白い光が、僕を焼き殺そうとしているんじゃないかと
思うほどの強い熱を放っている。
アスファルトからの照り返しが、昨年よりも強く肌を焼く。
車椅子に乗っていると、地面から立ち昇る陽炎になったような気分になって、
二本の脚で立っていたときよりも暑さを強く感じる。
実際にはさほど変わらないのだろうが、今年の夏は暑すぎる。
身体が腐らないことを祈っておこう。
123 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:53:27 ID:
zmKypy7U
しかし車椅子ってのは、どうも好きになれない。
運ばれているというか、特別扱いされているというか、
他人が勝手に車椅子の上の人を可哀想なモノ、
もしくは気持ち悪いモノ扱いしてくるのが気に入らない。
それに加え、押してくれる人にも悪い気持ちになる。
自分で進むことができればいいのだろうが、僕には腕が足りない。
その気になれば進めないこともないが、それでは異常に時間がかかってしまう。
そして最も気に入らないのが、彼女と並んで歩けないという点。
しかし、車椅子に頼らないと僕は動くことさえままならない。
もどかしくて、苛々する。
悪いのは車椅子ではないが、ついそういう風に考えてしまう。
124 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:56:17 ID:
zmKypy7U
「夏の匂いがするね」車椅子を押しながら、彼女は言った。
「麦わら帽子でも被ってくれば、もっと雰囲気でたかな」
「夏の匂い」僕は復唱し、考える。
夏の匂いとは、なんだろうか。
プールの塩素の匂いとか、海の潮の匂いだろうか。
花火の火薬の匂いか?
しかし、この辺りにそんなものはない。
じゃあ何だ? 蝉の鳴き声が鼓膜を揺する。
緑の匂いか? 汗の匂いか?
しかし、墓石が並ぶこの辺りからは、それらのものをあまり感じられなかった。
「夏でお盆でお墓参りっていうと、この匂いだよね。
まあ、夏の匂いってのとは、ちょっと違う感じかな?」彼女は言う。
「ああ」線香から立ち昇る煙が空気に混じり、鼻腔をくすぐる。「そういうことか」
125 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:57:58 ID:
zmKypy7U
八月十五日。
今日は僕の提案により、霊園に来ていた。
提案というか、彼女が「お盆休みで暇だね」というので、
僕は「実家に帰るか、お墓参りにでも行けばいいじゃないか」と答えた結果がこれだ。
彼女は「もうどっちも行った」と言うので、必然的に僕の番になった。
墓参りには毎年行っていたが、実家には全く帰っていない。
向こうも帰ってきてほしくないと思っていることだろう。
彼女はある程度の事情を知っているので、黙って僕をひとりでここに連れてきてくれた。
僕がどれだけまともになろうと、閉じこもってた時期があったという事実は無くならない。
傷は癒えても消えない。
まともになっていた筈なのにこんな姿だったら、両親は呆れるだろうか。
呆れるだろうな。
126 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:58:46 ID:
zmKypy7U
「ここだ」僕は言った。
目前には、文字の刻まれた御影石が佇んでいる。隣にも等間隔で、綺麗に並んでいる。
ガラス瓶に酒は入っておらず、脇に供えられた花も枯れていた。
どうやら父も母も祖母も伯父さんも、今年はまだここに来ていないらしい。
この下にはたくさんの骨が埋まっているのだろうが、
用があるのはたったひとり分の骨だ。
曾祖父や曾祖母には会った憶えすらない。
127 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:59:31 ID:
zmKypy7U
僕にとって、いちばん身近な故人は祖父だ。
彼はよく分からない人だった。
後に祖母から「お爺ちゃんは本が好きやったんよ」
ということを聞かされたが、本を読んでいるのを見た記憶がない。
僕のことを可愛がっていてくれたらしく、まだ小さかった僕が祖父の家を訪れると、
隠していた缶詰(猫用)と僕を引っさげて近所の川に向かったらしい。
そのころの僕が猫好きだったのかは不明だ。
「彼は隠れてやっているつもりだったらしいけど、わたしにはきっちりばれてた」、と祖母は言う。
ほとんど憶えていない。
僕が憶えているのは、僕と妹と従兄弟が遊んでいるのを
椅子に座りながら静かに眺めていた彼の姿だけだ。
128 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:00:15 ID:
zmKypy7U
そんな彼は、僕が小学三年生の頃に他界した。
そのときの僕には、何がなんなのか、全く理解できなかった。
心臓が停止するとほんとうに、あの高くて長い
無機質な音がなるんだなと、あとになって思い出す。
狭い病室にあの音が響くと、それに続くように次々と嗚咽が漏れ始める。
僕はそのとき、何かとても恐ろしいものを見ているような気持ちになった。
息苦しさに耐え切れなくて、病室から
後ずさるように退室したのを漫然と思い出した。
今の僕の姿を見たら、祖父はどんな顔をするだろうな。
129 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:01:07 ID:
zmKypy7U
「今、『僕が死んだらどうなるか』とか考えてたでしょ」
彼女は右手に持ったプラスチックの尺で、僕の頭を軽く叩いた。
左手のプラスチックのバケツには、半分ほど水が入っている。
「なんか、目が虚ろだったよ」彼女は続けた。
「いや、違うんだ。爺ちゃんが生きてて今の僕を見たら、どう思うかなってさ」
「ふーん。お爺さんって、どんな人だったの?」
「実は、ほとんど憶えてないんだけど」僕は頭を掻いた。
「でも、いっしょにいると安心できるっていうのかな、
落ち着くというか、そんな感じの人だった。
柔らかいというか、ふんわりとしてるというか」
130 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:01:39 ID:
zmKypy7U
「めちゃくちゃ憶えてるじゃないの」
「ほんとうだね」思わず吹き出した。
今更になって、次々と記憶が甦る。
「あと、僕は爺ちゃんの匂いが好きだったなあ」
「お爺さんの匂い?」
「うん。爺ちゃんの匂い。畳みたいな」
「よく分かんない」
「そうそう。僕の爺ちゃんは、よく分からない人だった」
彼女は薄く笑い、バケツを砂利の上に置いた。
少し傾いて、水が跳ねる。白く光る。
涼しい風が彼女の髪をかきあげた。砂埃が舞う。
木に茂った葉が触れ合う、乾いた音が辺りに響く。どこかで蝉が飛んだ。
131 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:02:57 ID:
zmKypy7U
それから、僕らは墓石を磨いた。
炎天下で力を込めて擦った。
汗が噴き出す。彼女の鼻の頭にも、玉のような汗が浮いている。
「暑い」彼女が零す。「アイスもしくはかき氷が食べたいね」
「あとで買いに行こう」僕は言い、墓石の両脇に花を添えた。
「驕り?」彼女はマッチを擦り、線香に火を付ける。
立ち昇る煙が空気中に拡散し、僕の鼻をつんと刺す。
「まさか」
「だよね」彼女は酒の入ったガラス瓶の蓋を開けながら続けた。
「君のお爺さんは、お酒好きだったの?」
「飲んでるのを見た記憶がないけど、好きだったんじゃないかと思う」
「ほんとうによく分からないね」
「君は好きなの? お酒」僕は訊いた。
「好きではないかな、あんまり飲まないし。でも、別に嫌いでもないよ」
「よく分からないな」
132 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:04:58 ID:
zmKypy7U
僕らは並んで瞼を閉じ、何かに祈った。
昔のことを思い出す。家族で祖父の家に遊びに行った日のこと。
家族でここに来たこと。従兄弟と蝉を捕りに行った日のこと。
大量の人に揉まれながら歩いた祭りの日のこと。花火を見たこと。
楽しかった。楽しかった? ああ、楽しかった。
確かに楽しかったが、もう一度そこに戻りたいとは、どうしても思えない。
何故だろう?
頭を揺すり、全部忘れることにした。
次に瞼を開いたとき、視界は真っ暗なんじゃないかと不安になったが、
いつも通り、目に映るのは味気ない灰色の風景だった。
治っていてほしかったなあと、淡い希望を胸の内側で吐き出した。
「じゃあ、帰ろうか」彼女は言い、踵を返す。
彼女の動きに合わせて、僕は車椅子を反転させた。必死である。
133 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:06:36 ID:
zmKypy7U
そして、来た道を引き返そうとしたとき、僕が密かに恐れていたことが起きた。
苦笑いが零れる程度には、恐れていたことだ。
遠くに四つの人影が見えた。
小さい人影はこちらに近づくに連れ、どんどん大きくなる。
やがてそのうちのひとつが、こちらを指差した。
それから、髪を揺らしながらこちらに向かって走り出した。
こうなるかもしれないとは、何となく思っていた。
しかし起こったらどうするかなんて、全く考えてなかった。
さすがにないだろうと思っていたのも事実だが、
起こってしまったものは仕方ない。
134 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:07:10 ID:
zmKypy7U
「ねえ、あれ」彼女は呟き、微笑む。「久しぶりに見た」
どうやら彼女も向こうに気付いたらしい。憶えていたのだ。
向こうは彼女が誰だか思い出せるだろうか。
「めんどくさいことになっちゃったなあ」
「ちょうど良かったじゃないの。どうせ言ってないんでしょ? 病気のこと」
「まあ、ね」僕は大きく息を吸い込み、吐き出す。咳き込んだ。
「緊張してる?」
「それなりに」
緊張以上に、怖い。
彼女と引き離される可能性だって、無いとは言い切れないのだ。
「人様にこんな木偶の坊を預けるなんて、それこそ恥だ」とか言うんだろう、きっと。
確かに彼女は全く関係のない赤の他人だった(とも言い切れないかもしれない)が、
今は少し事情が違う。
ようやくこうやって二人でいられるようになったのに
そんなのあんまりだ、と思ったが、同時に、実際のところ彼女は
僕のことを足枷だと思っているんじゃないだろうかと不安にもなった。
しかし彼女は「いっしょに頑張ろう」と言い、僕の背中を軽く叩いてくれた。
それで十分だった。
135 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:12:05 ID:
zmKypy7U
小さな人影はだんだんと人の大きさに近づき、
ゆっくりと減速して僕らの前で立ち止まった。
懐かしい顔だった。何年ぶりになるのだろう。
全くと言っていいほどに、変わっていない。
その人は興奮しているのか、恐ろしいのか、
ただ走って息が苦しいのか、大きく呼吸を繰り返している。
やがて、血の気の引いた顔をしながら、口を開いた。
「兄ちゃん、だよね?」
136 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:12:39 ID:
zmKypy7U
僕は頭を掻き、「久しぶり」と言った。
彼女も笑顔を浮かべ、「久しぶり」と言う。
妹の背後には、両親と祖母が近づいてくるのが見える。
「ねえ、どうしたの? その手と、脚……」
「その手と脚って、どの手と脚だよ」僕は笑ってみせた。
「その、左手と、右脚……」
「そんなもん無いよ」
妹の表情は凍りついた。
思わずため息が零れる。変な笑みが込み上げてきた。
まさか、うちの家族と墓参りの日が被るとは。
めんどくさいことになっちゃったなあ。
137 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:13:29 ID:
zmKypy7U
*
「どうして黙ってたんだ」父は静かに言った。「そんなに俺が信用できないのか」
「別に、そんなつもりじゃなかった。ただ、僕の顔なんて見たくないんじゃないかと思って」
「どうしてそんなこと言うの。そんなになってまで」
母は静かに零した。真っ直ぐ僕の目を覗いている。
「『帰ってくるな。お前なんか知らん』とか言ったのはそっちじゃないか」
「確かにそうだが」父は怒気を孕んだ低い声を響かせた。「それとこれとは別だ」
「人様に迷惑を掛けるなって言うんだろ、どうせ。死ぬならひとりで死ねって」
「何言ってるの。そんなこと……」母は弱く否定した。父は黙っている。
襖を挟んだ隣の部屋に、四つの目が見えた。
小さく開いた襖の隙間で、瞬きを繰り返している。
彼女と妹だ。どちらも微妙な表情だった。
どうしたらいい、と目で訴えかけているように見える。
むしろこっちが訊きたい。思わず苦笑いを零した。
138 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:14:43 ID:
zmKypy7U
霊園で両親と運命じみた遭遇をした後、僕と彼女は祖母の家に向かった。
僕はいやだと言い張ったが、彼女がそれを許さなかった。
押しに弱いというのは、なんとなく損な気がする。それに加え、
彼女は真っ直ぐな人間だということもあって、僕が有無を言う暇など無かった。
そして今、祖母の家の居間で僕と両親は、小さなテーブルを挟んで睨み合っている。
祖母は離れたところからそれを見守っている。
祖父も仏壇から見てくれていることだろう。
彼女と妹は居間から追い出されたが、どう見ても会話は筒抜けだ。
襖に防音処置を施してあるのなら話は変わってくるが。
139 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:15:42 ID:
zmKypy7U
「お前、なんて病気なんだ」
「知らないよ」
「まさか、病院に行ってないのか?」父は怒りを露にして言う。
「行ったに決まってるだろ。医者もこんな病気知らないって言うんだよ」
「それで追い返すなんて、酷い医者もおるんやねえ」祖母はぽつりと言った。
「そんな馬鹿な話があるか」
「こんな馬鹿な話があるから、四ヶ月もこうやって過ごしてるんじゃないか」
言い終わってから、あれからもう四ヶ月が経っていたことに気付いた。
早いような、そうでもないような。
「四ヶ月前から、ずっとそうだったの?」母は恐る恐るといった様子で言う。
「いや。腕が無くなったのは四月の終わりで、足が無くなったのは数週間前」
「目は?」
「え?」