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男「僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ」
Part5


92 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:49:50 ID:fda7aQIA
いまの僕から見れば、街灯の光だけでは夜道は心細い。
視界の淵が黒いものに狭められてきているし、歩くのも少し踏ん張らなければならない。
まるで僕の意思とは別の何かに身体をコントロールされているような、不気味な感覚だった。
「大丈夫? 見えてる?」彼女は僕の隣を歩いている。
「見えてる見えてる」
僕の目に映ったのは、遺影のような、白黒の彼女の笑った顔だった。縁起でもない。

93 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:50:25 ID:fda7aQIA
今朝。窓の脇に吊るしておいた短冊は消え、
照る照る坊主だけが太陽の光に曝されていた。
短冊はおそらく、分別だけが済んだごみ袋だらけの
僕の部屋のどこかで息を潜めているのだろう。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
もっと重要なことを思い出したのだ。
昨晩、電話で「蛍を見に行く」という約束をしたが、
いつどこで、僕はどうすればいいのかというのを訊き忘れていたのだ。馬鹿だ。
答えを保留する(させる)のは僕らの得意技だが、
だからといって、「なるようになるさ」というスタイルをこのまま貫き通すのも
駄目な気がしたので、結局僕は今朝、ふたたび彼女に電話をかけた。

94 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:51:23 ID:fda7aQIA
『もしもし?』電話の向こうからは、彼女の声と、何かの曲が聞こえてくる。
「もしもし? おはよう」
『おはよう。どしたの?』
「いや、訊きたいことがあってさ」
『何?』
「昨日、蛍を見に行くって言ってただろう?」
『うん』
「そのとき訊きそびれたんだけど、僕はどうしたらいいの?
夜になったら、君の家に行けばいいのかい」
『いや』彼女は即座に否定した。『いまからわたしがそっちに行く』
「え? いまから?」僕は反射的に時計の方を見た。
時刻は午前九時四十五分だった。「早くない?」
『早くない。蛍を見に行くだけじゃなくてさ、
ちょーっとだけ買い物に付き合ってほしいんだよねえ』
「ちょーっと、ねえ」当てにならない言い方だ。「ほー」
まさか、夜まで買い物とか言い出すんじゃないだろうな。

95 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:53:37 ID:fda7aQIA
『ほら、久しぶりにスパゲッティでも食べに行こうよ』
「驕り?」
『まさか』彼女は僕の声に被せて言った。
「さすがだね」

96 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:54:10 ID:fda7aQIA
『もっと褒めてもいいんだよ』
「君のその小さい胸は最高にキュートだよね」
『変態』
「酷いな」
『お互い様よ』
「君も変態ってことかい」
『わたしも酷いってことよ。馬鹿』
「もっと罵ってくれ」
『うわ。気持ち悪い』
「その言い方はちょっと傷つくかな」
『ごめん』
「こちらこそ」本題は何だったか。忘れてしまった。

97 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:54:46 ID:fda7aQIA
『もういいかな、このくだらない話。そろそろ君の家に着くんだけど』
「え? もう着くの? まだ何の準備もしてないんだけど。服すら着替えてないし」
『じゃあ、さっさと服と財布と心の準備をすること』
「君は僕のことを、荷物を引っ掛けられる財布か何かと勘違いしていないか?」
『そんなこと思ってないよ。君はわたしの』間。『大事な友達だよ』
「そうか」割と真面目っぽい返事をされたので、次に話すことが喉から上手く出てこない。
『何よ、その薄い反応。恥ずかしいじゃないの』
「いや、友達なのかと思って」僕は思ったことをそのまま口に出して言った。
『どういう意味?』
「それは」なんだか変な流れになってしまった。心臓が跳ねている。
僕は考えた。言うか、言わないか。……

98 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:55:35 ID:fda7aQIA
『着いたよ。早く出てきて』彼女は僕の思考を遮る。
さっきのは無かったことにされたらしい。
「え? 速くないか?」
『いいから、早く。
なんなら、わたしが家に上がり込んで着替えさせてあげようか?』
「急いで着替えるよ。あと、最後に訊きたいことがあるんだけど」
『何』
「君はまさか、電話しながら運転してたのかい」
『はあ。じゃあ、早く出てきてね』無視された。電話は切れた。
「うわ、めんどくせえ」とか思われたんだろう、たぶん。

99 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:56:31 ID:fda7aQIA
午前中はひたすら彼女の欲しいものを、たっぷり二時間かけて買い漁った。
それは服だったり、本だったり、お菓子だったりで、とにかく僕らは歩き回った。
服の試着をするたびに、「似合う?」と訊いてくれるのは少し嬉しかったりするが、
僕は色が見えなくなったというのを忘れてしまったんだろうか。どれも同じように見えてしまう。
買い物袋が増える度に、僕の右手にかかる重さが増していくが、
彼女は僕の片腕がなくなったことを忘れてしまったんだろうか。
脚が重いって、いつか言ったはずだけど、それも忘れたんだろうか。
彼女はひたすら僕を連れまわした。

100 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:57:11 ID:fda7aQIA
でも、腕と色がなくなっただけで、鬱々とした気分になられても困るのも事実だ。
だから僕としては嬉しかった。
今までと同じように接してくれるというのは、今の僕にとってはとてもありがたいことなのだ。
しかし、周りの人間はそうはいかない。
どこを歩いていても、何度も左腕のあったはずの場所に、幾つもの視線が刺さる。
興味のないように振舞っている人間も、必ずと言って良いほどにちらりとそこを見る。
本人は気付かれていないと思っているのだろうが、明らかに目の動きがおかしい。
一度そこを見た後は、一切そこを見ようとしないのだ。それはもう、不自然なほどに。
いやでも僕にはそれが分かる。
見る側から見られる側に行くと、苛々するほど見られる側の気持ちが理解できた。
無視しようとしても、どうしてもすれ違った人の小声が聞こえてしまう。
気分が逆立ってしまうのを止められなかった。
そんな僕に気を遣ってくれたのか、彼女はずっと僕の左側に立ってくれていた。
僕の左腕を隠すように歩いてくれた。
隣を見ても、彼女は決して暗い表情を見せない。
僕としては彼女を思いっきり抱きしめてやりたいところだったが、
同時に、とても申しわけない気持ちになり、それどころではなかった。
彼女はほんとうに楽しんでいるのだろうか?
僕が隣にいることで、いやな気分になっていないだろうか?

101 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:57:59 ID:fda7aQIA
「わたしは楽しいよ。なんでそんなこと訊くの?」彼女はスパゲッティを頬張りながら言った。
「なんか、気を遣わせてばっかりのような気がしてさ」
「そんなことないよ。君は? 君は楽しくないの?」
「いや」僕は即答した。「実は、楽しすぎて死にそうなんだ」
「ほー」彼女は微笑んだ。「お願いだから、そんなくだらないことで死なないでね」
「死ねないよ。こんなの」
「わたしもまだまだ君に言いたいことがあるからね。死なれても困る」
「言いたいことって、たとえば?」
「それは追々話していくとしよう」彼女は席から腰を上げた。
僕からお金を受け取らずに、伝票も持っていってしまった。

102 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:58:43 ID:fda7aQIA
蒸し暑い空気が漂い始める、穏やかな午後。太陽が高いところで白く光っている。
僕らは午前よりペースを落とし、午前と同じようにいろんなところを回った。
といっても、途中からはほとんど喫茶店で駄弁っていただけだが。
さすがに一日中歩き回るのは、彼女にとっても苦行なんだろう。
疲れていたのか、彼女は小さなケーキを二つ頬張った。
「よく食べるね」僕はわざとらしく目を丸くして言った。
「君は食べなさすぎ。なんか、この三ヶ月ですっごい痩せたよね」彼女はコーヒーを啜る。
「そうかな」痩せたことよりも、あれから三ヶ月も経っていたということの方が驚きだ。

103 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:59:33 ID:fda7aQIA
「ちゃんと食べてるの?」
「まあ、一日に一食は」
「駄目じゃん。普段は家で何してんの?」
「ずっとソファーに縮こまってるんだ。そのおかげで、お腹が減らない」
「はあー」彼女は呆れ顔だ。「ほんとうに大丈夫なの?」
「そろそろ拙いかもね。いろいろと」風船とか、身体とか、距離とか。
外に出ると、周囲は濃い灰色に包まれていた。
遠くには消えそうな白い光が、天辺にはぼんやりと薄い光が浮かんでいる。
「じゃあ、行こうか」彼女は呟いて、笑った。

104 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:00:10 ID:fda7aQIA

この高い音で鳴く生き物の正体はコオロギなのか、
鈴虫なのか、それとも名前も知らないような虫なのか。
いや、もしかすると虫ですらないのかもしれない。
機械がこの音を流しているだけなのかもしれないし、
はたまた田圃に突き刺さっている案山子が鳴いているのかもしれない。
それに加え、外宇宙からやってきた生物が発声しているという可能性も存在する。
コオロギや鈴虫に似た地球外生命体だって存在するかもしれない。
姿が見えていないのに、「これはコオロギだ」だの
「これは鈴虫だ」だの、そんな決め付けをするのはおかしいと思う。
しかし、今の僕にとって、そんなことはこの世で最もどうでもいいことだ。
コオロギが鳴こうが、案山子が泣こうが、エイリアンが喚こうが、知ったことではない。
今、最も重要なのは、隣に彼女がいて、夜道を二人きりで歩いているということだ。

105 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:00:43 ID:fda7aQIA
目の前には、長くてぐねぐねとした道が続いている。
この辺りは街灯が少なく、田圃や畑が多い。
足元の道も舗装が施されていない箇所があったりするので、少々歩きづらい。
ところどころに立っている電柱が、この風景の中に馴染めていないように見える。
言っちゃ悪いが、田舎っぽい場所だなと思った。
左手の柵の向こう側には池があり、滲んだ光が水面で揺れている。
ときどき波紋が広がり、光は震えながら潰れて、また元の形に戻る。
右手には、鬱蒼とした森林が広がっている。
奥の方に獣道のようなものが見えたが、あれは昼間に子どもたちが
この辺りをうろついているんじゃないだろうかと、適当な推測をした。
ダンボールでできた秘密基地とかがあったりするんだろうなあ。胸が少し痛んだ。

106 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:01:49 ID:fda7aQIA
「着いた」彼女は立ち止まった。「ここだよ」
暗い。とにかく暗い。街灯は数百メートル先で、弱々しく光を放っている。
僕の目が正常だったとしても、これはあまりにも暗すぎると言ってもいいだろう。
蛍を見るのには最適な場所と言えるかもしれないが、
僕にとっては何か少し恐ろしい場所に見えた。
視界はほとんどゼロに近い。暗闇の一歩手前だ。
どれだけ目を見開いても、届く光の量は変わらない。
「なあ」僕は耐え切れなくなって言った。「君はそこにいるのか?」
「ここにいるよ」声は左側から聞こえてくる。「見えないの?」
「真っ暗だ。ほとんど何も見えない」
「じゃあ、わたしが何をしても、君には分からないわけだ」

107 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:03:51 ID:fda7aQIA
「頼むから、置いていったりしないでくれよ」
「わたしはそんな酷いやつじゃないよ」
「分かってるけどさ、怖いんだ」
「それなら」声は左側から背後、右側へ移動する。
「こういうのは、どうかな?」そして僕の右手が、柔らかいものに包まれた。
「こういうのって、どういうのさ」
「君がわたしの手を握っていれば、簡単にはどっかに行けないんじゃないの?」
「なるほど」これは彼女の手か。指が細くて、柔らかくて、あたたかい。
女の子の手って、こんなに柔らかいのか。
僕はそっと、彼女の手を握り返した。
「そんなんじゃ、わたし簡単に逃げられちゃうよ。これくらいしないとさ」
彼女は言い終わってから、自らの指を僕の指に絡ませて、強く握った。
僕は黙って、彼女の手を強く握り返した。
「そうそう。そんな感じ」
彼女の声は、あっけらかんとしていたが、彼女は今どんな表情をしているのだろう。
暗くて見えない。でも、暗くてよかったとも思う。
おそらく、僕の顔は林檎のような感じだろう。
彼女もそうであってほしいと、ささやかな願いを内心で呟いた。

108 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:04:59 ID:fda7aQIA
しかし、どうも落ち着かない。気分が高揚している。
心臓の音が外にまで響いているんじゃないかと不安になった。
呼吸が荒くならないように、ゆっくりと空気を吐き出し、ゆっくりと空気を吸う。
どうしても肺に酸素が行き渡らなくなると、咳き込んだり鼻を啜ったりして呼吸を整える。
こういうとき、僕は大きく息を吸うと、震えてしまうのだ。
「君は昔からそうだよね」彼女はぽつりと言う。
「何が?」
「君の息の吸い方が変になるときって、だいたい緊張してるときなんだよ。知ってた?」
「え?」声が裏返った。ばれてたのか? 顔が焼けそうだ。
「ほー。そうかあ、緊張してるのかあ」彼女は絡めた指を少し緩めた。
僕は反射的に、彼女の手を強く握った。
「そうなんだよ」僕は嘘を吐くのが苦手なので正直に言った。
声が震える。「ものすごく緊張してるんだ」

109 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:05:51 ID:fda7aQIA
「どうして?」暗闇の向こうで彼女は言う。きっと笑っているんだろう。
「どうしてって、それは」
暑い。熱い。肌が焦げそうだ。心臓は破裂しそうで、喉が渇く。
「それは?」彼女は僕の手を強く握る。それから前後に軽く揺れ始めた。
「はい、言ってごらん。せーの?」
なんだか誘導されているような感じだが、逃げては駄目なような気がした。
彼女は茶化すのが得意だ。
僕は誤魔化すのが得意だが、それはもう止めにした。
「あれだ。僕は、君のことが好きで堪らないからだ」

110 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:08:22 ID:fda7aQIA
目の前で小さな光が点滅し始めた。
幾つも、幾つも光り始める。
急に視界が広がったような、心地良い感覚に襲われた。
「おー?」彼女は奇妙な声を上げる。
「なんだよ、それ」声が震える。
「やっと言ってくれたね」
「え。もしかして、知ってたのか?」
「そりゃあ、なんとなく分かるでしょう」
「なんか、調子狂うなあ」
身体から力が、肺からは空気が抜ける。右手はそのままだ。
「でも、わたしは好きとか愛してるとか、
そういう言葉ってあんまり好きじゃないなあ」
「どうして?」
「ライクは別にいいんだけど、ラブって
なんか安っぽく聞こえない? 切ないとか、
そういう微妙な言葉も。中途半端というか、なんというか」
「そうかな」

111 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:08:58 ID:fda7aQIA
「だって、アイ・ラブ・ユーだよ? 普通じゃん」
「よく分かんないけど」僕は急かした。
「そんなことよりも、君は僕のことをどう思ってるのかを知りたい」
「んー? 言わなくても分かってるんじゃないの?」彼女は微笑んでいる。
「そうであってほしいとは願ってる」
「好きだよ。超好き」
「それはラブ? ライク?」
「うーん。ライク・ライク・ライクくらいかな?」
「僕にも分かるように例えてくれ」
「君と結婚してもいいくらいには好き、かな?」
彼女は言ってから、空いた右手で顔を扇いだ。「あー、恥ずかしい。焼け死にそう」
「僕は今すぐ死んでもいいくらいに嬉しいよ」
「ちなみに、『君と結婚したい』ではないのがポイントだよ」
「変なところがリアルだよね」
「でも好きだよ」

112 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:10:04 ID:fda7aQIA
もう言葉は必要ない。手が触れているだけでいい。そう感じた。
暗い森から、小さな白い光が次々と現れ、すぐに消えていく。
十数年ぶりに見た。
蛍の光というのは、想像以上に弱々しい。
彼女の目を通してみたら、蛍の光は何色で、どんな風に映っているのだろう。
きっと、色は白ではなくて、弱々しくもないのだろう。
彼女は、僕とは違う。
性別とか病気ではなく、もっと深いところ、根っこの部分が違うのだ。
彼女の目を通してみたら、僕は女の子みたいに弱くて、
脆い人間に映っているのだろうか。訊くまでもない。
でも、それでもいいと思った。
だから僕は、今ここにいられるのかもしれないのだから。
僕らは黙り込んだまま、二十分ほど明滅する光を漫然と眺めていた。