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男「僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ」
Part4


69 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:15:50 ID:fda7aQIA
彼女は黙る。僕は考えた。
いつまでこんな幸せな日が続けられるだろうか?

70 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:17:21 ID:fda7aQIA

七月七日。
カーテンの隙間から射す朝の光と、窓を通り抜けて
鼓膜を揺らす蝉の鳴き声に嫌気が差し、僕は上体を起こした。
ここから、僕の長い夏休みは始まる。
夏休みか。
今更になって、また夏休みなんてものを体験できるとは。
なんて、自分を騙すように苦笑したが、気分は暗くて重かった。
学生だったころとは、何もかもが違いすぎている。
楽しかったなあ。昔は何をして遊んだっけ。
気を紛らわすために記憶を手繰ってみたが、何も思い出せなかった。
残っていたのは、「楽しかった」という漠然とした感想だけだ。
あのころのみんなは、いまはどこでどうしているんだろうか。
きっと僕とは違って、上手くやってるんだろうな。

71 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:18:12 ID:fda7aQIA
ものすごく虚しい。
胸の真ん中に穴が開いているみたいな気分だった。
そのおかげで、僕の思考は重力の二倍ほどの速さで暗闇に落ちた。
僕はこんな汚い部屋で何をしているんだろうか。
誰にもいまの姿を見られたくないからって、自宅に引き篭もって、何が楽しいんだ?

72 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:19:03 ID:fda7aQIA
いや、だって聞いてくれよ。僕は頭の中の誰かに語りかけた。
僕が外を歩いてもさ、みんな僕のことを見ないで、左腕のあった辺りを見るんだ。
誰も僕なんか見ちゃいないんだって。みんなが見てるのは存在しない左腕なんだ。
だから、外に出るのはいやだ。僕の腕のあった場所を見ると、
何人かでいるやつらは決まってしかめっ面でぼそぼそと話し始める。
呪詛を吐いているように見えるよ。
で、しばらくするとそいつらは大声で笑い出すんだよな。
それを見聞きすると、ものすごく苛々するんだ。
何がそんなに面白いんだ? って訊いてやりたくなるよ。
それに、僕がここから出たって、気分が良くなるやつなんていないだろう。
だから僕はここにいる。僕は悪くない。そうだろ? そうだよな。

73 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:20:32 ID:fda7aQIA
自分に適当な言い訳を聞かせて勝手に納得する、
という行為も、そろそろ飽きてきた。何日目になるのだろう。
朝日を見るたびに自問自答をし、月が辺りを照らす度に自己嫌悪に陥る。
もううんざりだ。
それでも、死んでやろうとまでは思わなかった。
自分から死ぬのだけはごめんだ。
しかし、「まあ、どうせ死ぬんだしな」、と
どうしても投げやりになってしまう。
おかげで無気力に陥る。僕は負のサイクルの内側に囚われていた。
僕はそのサイクルから逃げ出すために、
昼間はソファーに縮こまり、右手で携帯電話を
握り締めながら彼女のことを考える。
女の子かよ、とか言われても仕方ない。
未だに僕は彼女の家に泊まった日の夢を見る。
しかし、その日の寝覚めは最悪に近い。
夢というのは、自分の願いが叶う場所とか、潜在意識の現われだとか思っていた。
しかし夢というのは、目に映る景色よりも鮮明に、現実を見せつけてくることもある。
僕はいまの自分が置かれた境遇を理解するために
彼女の夢を見ているのかも、なんて、くだらないことを思った。

74 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:22:04 ID:fda7aQIA
僕はのろのろと布団から這い出て、カーテンを開けた。
目に強い光が襲い掛かる。白い光だ。
その光に対抗するように、薄目で窓の外を見た。
眼前にあったのは、僕が慣れ親しんだ町の風景とは少し異なっていた。
遥か頭上には、白い光を放つ球体がある。太陽だ。
ところどころに濃灰色の雲が浮かんでいて、空は灰色だ。
町はどこもかしこも灰色だった。車も、濃灰色だったり薄灰色だったりだ。
自分の身体も、似たような色をしている。
まるで白黒写真の中に飛び込んだような、不思議な気分になった。
しかし、僕はその不思議な気分を丸呑みにしてしまうほどの不安と恐怖に、肌が粟立った。

75 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:23:50 ID:fda7aQIA
まさか。僕は寝室を飛び出し、リビングに向かった。
ありえない。リビングのテレビの電源を付けて、画面とにらめっこをする。
ちょっと待ってくれよ。薄いテレビに映っている映像もまた、灰色だった。
嘘だろ。なんとなく気付いてはいたが、認めなくなかった。
だって、こんなの、信じられない。
色がない。
僕の世界から、色が消えた。
目が、壊れ始めたのだ。

76 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:24:29 ID:fda7aQIA
僕は頭の中で、ふたたび自問自答を開始した。
このまま見えなくなるのか?
知らないよ。
いつまでもつんだ?
知らないって。
なあ、どうすりゃいいんだ。
黙れ。知らないんだって。
助けてくれよ。
知らないって言ってるだろ!
ああ、糞! 答えろよ!
うるさい! 死ね! さっさと死んじまえ!

77 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:25:43 ID:fda7aQIA
僕は衝動的に右手でテレビの液晶画面を叩き割った。
テレビは台から転げ落ち、派手な音を鳴らして、床に破片をぶちまけた。
右手が、じんじんと痛んだ。
涙で歪んだ視界は、灰色のままだった。

78 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:34:50 ID:fda7aQIA

たぶん、夜だ。
窓の向こうの空が濃灰色に染まっている。町はほとんど黒い。
真っ白な光が空に浮いているが、あれはおそらく月なのだろう。
輪郭がぼやけていて形が分からない。
月の隣には、布に滲んだ牛乳みたいな、潰れた白い光が広がっていた。
あれは、星だろうか。
僕は朝から携帯電話を握り締めながらソファーに座り込んで、
眼前に広がる見慣れたはずの風景を、いまも漫然と眺めている。
悲しいとか怖いとか、そういうのはほとんどなかった。
もう、どうでもよかった。
諦めに近いものが、物事に対する関心を外側からごっそりと削いでいく。
真ん中に残ったのは、生へのみっともない執着と、彼女のことだけだ。

79 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:35:49 ID:fda7aQIA
頭に叩き込んだ十一桁の数字のボタンを押すだけで
彼女の声が聞けるのに、僕はずっとそれをしなかった。
「きっと彼女も仕事で忙しかったり疲れていたりするだろうから、
電話なんかしたら悪いよな」、と自分に言い聞かせて
暗い部屋でずっと閉じ籠っていたが、そろそろ限界が近い。
内側の風船は破裂寸前のように見える。
でも風船って、意外と割れないものだと思う。
だから今のうちに、まだ僕がまともでいられるうちに、彼女に電話をかけることにした。
コール中に、どうやって視界が灰一色になったことを伝えようかと考えた。

80 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:37:52 ID:fda7aQIA
『もしもし?』電話の向こうの彼女は、いつもと変わらない様子で言う。
『久しぶりだね。どうしたの?』
「いや、なんとなくね」僕は嘘を吐くのが苦手なので、正直に言った。
「君の声が聞きたくなったんだ」
『なにそれ。ロマンチックね』
「だろう。寝ないで考えたんだ」
僕は嘘を吐くのは苦手だけど、誤魔化すのは得意なほうだと思う。
『それにしては在り来たりな台詞だね』
「酷いな。必死なのに」
彼女と話していると落ち着く。話したい言葉が喉から滑り出してくる。
さっきまでの無気力が嘘のように思えてしまう。
『ごめんごめん』彼女はこれっぽっちも悪びれた様子じゃなかった。
『で、ほんとうにわたしの声が聞きたかっただけなの?』
「いや、それもあるんだけど、他にも理由がある」
『何』

81 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:38:33 ID:fda7aQIA
「良いニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」
『なにその洋画みたいな言い回し』
「アメリカンだろ?」
『はいはい。じゃあ良いニュースからお願い』
「良いニュースはだな……」僕は良いニュースを考えた。思いつかなかった。
「ごめん。考えてなかった」
『馬鹿じゃないの? じゃあ悪いニュースはあるの?』
「あるんだよ、これが。実はさ」
色が見えなくなったんだ、と言いかけて、止めた。
わざわざこの空気をぶち壊すような話題を、
このタイミングで提供すべきではない気がする。
だから僕は代わりに、「最近肩がこるんだ」と適当なことを言った。
『で?』電話の向こうからは、なんとも素っ気ない返事が返ってきた。

82 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:40:01 ID:fda7aQIA
「いや、それだけだよ? 続きを期待されても困る」
『え? 終わり?
またどっかが壊れたとか言い出すのかと思ってドキドキしたじゃないの』
「ああ。あと、最近は右足がよく攣るんだ」
それに、異常に重たいんだ、と内心で呟いた。
『知らないわよ』
「だよね」話が終わってしまったので、話題を変えることにした。「最近、どう?」
『どう? って、また随分曖昧な質問ね』
「じゃあ、仕事はうまくいってる?」
『ぼちぼち』
「模範解答だね」
『みんな似たような感じってことじゃないの。
君はどうなのよ。大丈夫なの?』
「大丈夫ではないけど、まあ何とかやってるよ」
『そっか』
沈黙。

83 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:41:46 ID:fda7aQIA
『ちょっと思い出したんだけど』沈黙を破るのはいつも彼女だ。
『わたしからも良いニュースと悪いニュースがあるの。どっちから聞きたい?』
「じゃあ、良いニュースから」
『きょうは七月七日。七夕です。星が綺麗だよ』
「知らなかったなあ」あの牛乳はやっぱり星だったのか。
『わたし、明日は休日なのです』
「おめでとう」
『以上。良いニュース終わり』
「で、悪いニュースは?」
『ごめん。考えてなかった』彼女は間髪要れずに答えた。
『それと、もうひとつだけ良いニュースがあるよ』
「何さ」

84 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:42:33 ID:fda7aQIA
『ニュースというか、個人的な話なんだけどね。
明日さ、蛍を見に行こうよ』
「蛍?」僕はとぼけて聞き返した。
『そう、蛍。ファイアフライ』
「僕は意味もなく横文字を使う人って嫌いじゃないよ」
『ありがとう。でさ、明日の夜、暇?』
「毎日二十四時間暇だよ。
最近は一日が三十時間くらいに感じる」
『羨ましい』
「そんなに良いもんじゃないよ。ほんとうに死にそうだ」
『じゃあ死ぬまでにたくさん思い出作らないとね』
「そうだね」冗談に聞こえない冗談だ。

85 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:43:29 ID:fda7aQIA
『……なんか君、丸くなっちゃったね』
「何が。腹? 背中?」
『いや、ちょっと前までなら、「僕は死なない」とか言い返してきたのにさ』
「ああ」確かにそうだった。いや、そうだったか? ああ、どうでもいいや。
「きょうはちょっと気分が良くないんだ」
『どうして?』
「なんとなくね。朝から調子が悪いんだ」
『ふーん。どうせ肩がこるとか言ってたのは嘘なんでしょ? ほんとうは何かあったんでしょ』
「何も無いよ」思わずソファーの上で小さく跳ね、苦笑いを浮かべた。
電話の向こうの彼女には悟られないようにしたつもりだった。
でも、彼女には見破られてしまったらしい。
『嘘。わたしには分かるのよ。またどっかが駄目になったんでしょ』
彼女には敵わない。「実は、そうなんだ」

86 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:44:29 ID:fda7aQIA
『やっぱりね。どこがどうなったの?』
「目が、ちょっとね」
『見えなくなったの?』
「いや、見えるのは見えるんだけど、色が見えなくなったんだ。
どこを見ても灰一色でさ。いやになっちゃうよ」
『……』電話の向こうでは、乾いた音だけが鳴っている。
やってしまった。言ってしまった。
わざわざ空気を重くするようなことを。馬鹿か。
しばらくの間、重い沈黙が続いた。
居心地の悪い、苦い空気だ。
これが永遠に続くんじゃないかと思い始めたとき、
彼女は、『そっか』と呟いた。

87 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:46:26 ID:fda7aQIA
「でも、明日は君と蛍を見に行くよ」
僕は彼女の気が変わらないうちに、急いで言った。
変に気を遣われるのもいやだ。
『うん。行こう』
「ありがとう。きょうは急に電話なんかして、悪かった」
『別にいいよ。暇だったし。こっちから掛ける手間も省けた』
「そう言ってくれるとありがたい」

88 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:46:57 ID:fda7aQIA
『じゃあ最後に。あんまり落ち込んじゃ駄目だよ』
「うん」
『きっと治るだとか、頑張ってだとか、
あんまり無責任なことは言いたくないけど、これだけは言わせてほしい。
自暴自棄にだけはならないでね。そうなったらほんとうに駄目になるよ』
「分かってる」
『それならいいんだけどね。
あ、きょうは七夕だし、短冊に願い事でも書いてどっかに吊るしておけば?
病気が治りますようにって。気の利いた神様が助けてくれるかもよ』
「女の子みたいな幻想を抱いているんだな、君は」
『失礼な。わたしも願ってあげようと思ったのに』
「是非お願いしておいてくれ」
『はいはい』
「じゃあ、また明日」
『うん。また明日ね』

89 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:45:44 ID:fda7aQIA
電話は切れた。
ひとりに戻ったのだと思うと憂鬱な気分だった。
余韻も糞もない。暗く深い川に放り投げられたような、
救いの無い寂しさとでも言うのだろうか。とにかく心細い。
僕は音のしなくなった電話を耳に押し当てながら、十分ほど固まっていた。
自分でも何をしたかったのかは分からない。
その間、ずっと彼女の言葉を反芻していた。
七夕。願い事。蛍。明日。……
電話の内容を思い出していると、消沈していた気分が、ゆっくりと浮上してきた。
我ながら、浮き沈みの激しいやつだと思う。

90 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:46:20 ID:fda7aQIA
僕は彼女の言葉に突き動かされるように、
シャボン玉のように脆く淡い期待をボールペンに込めて、長細い紙に願い事を綴った。
ついでに照る照る坊主も作って、窓の近くに短冊といっしょに吊るしておいた。
子どもに戻ったみたいな気分だ。馬鹿馬鹿しくて、笑みがこぼれる。
僕はそのまま、ふわふわとした気持ちをこぼさないように
必死で抱え込み、眠りについた。
明日が待ち遠しいなんて、いつ以来だろうか?
僕の内側は、まだ純粋だった少年だったころのように、綺麗になれたのだろうか?
なあ、教えてくれよ。

91 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:47:37 ID:fda7aQIA

七月八日。町は黒い。夜だ。
輪郭を持たない月と、黒々と染まった町の間には、
幾重にも重なった灰色が広がっている。
月に近づくほど灰色は薄くなり、遠くなると濃くなる。
月から遠く離れた場所にあるこの町は当然暗いが、
街灯があるので完全な暗黒になるということはない。
しかし、僕の足元はほとんど真っ黒だった。どこに地面があるのかも見えないし、
どこからが脚で、どこからが脚じゃないのか、その境界線も見えない。
下半身は真っ黒な水に浸かっているような感じだった。
脚が重いので、なおさらそう感じられる。