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男「僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ」
Part11


241 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:00:54 ID:f9WrwJvo
ほら、早く行けよ。彼女が起きてくるぞ?
頭の中の僕が哂う。
そいつを歯で潰し、そのままもう一度、転げ落ちた。
痛い。
声が漏れそうになる。
漏れたところで雨音に上塗りされて誰の耳にも届かないのだろうが、必死に堪えた。
口元を熱いものが伝った。
口の端が切れている。
これは、血か。
歯を食いしばり、八階に向かった。

242 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:01:45 ID:f9WrwJvo
それからしばらくすると、自分が何階にいるのか分からなくなった。
なんにも分からなくなった。
今、自分は何故、階段を転がり落ちているのか。
何故、エレベーターで行かずに、階段なのか。
何故、僕はこんな身体なのか。
何故、光が見えないのか。
何故、彼女はここにいないのか。
頭の内側で問いかけても、返ってくるのは外側で轟く雨音だけだった。

243 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:02:39 ID:f9WrwJvo
しばらく壁に凭れながら考えていると、なんとなく分かっていたような気がする。
僕がエレベーターではなく階段を転げ落ちているのは、時間を稼ぐためだろう。
彼女が僕を見つけてくれるまでの、時間を。
それと、自分を痛めつけることによって、許されようとしている。
何に対して? 分からない。
光が見えないのは、罰か。
暗い部屋に籠っていたのがまずかったのかな。

244 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:05:29 ID:f9WrwJvo
ならば、どうして彼女はここにいない。分かっているのか?
彼女はここにいない。
彼女はここにいない。
彼女はここにいない。彼女はここにいない。
彼女は、ここにいない。
今、彼女は、お前の隣にいないんだ。
どうして? 僕が逃げ出したからだ。
なんで逃げ出した? 彼女を苦しませたくなかったから。
ほんとうは? 僕が耐え切れなかったから。風船が割れたから。
だから、早く逃げるんだ。
僕は腫れあがった身体を引き摺って、階段を転がった。

245 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:06:05 ID:f9WrwJvo
そのとき、声が聞こえた。
声というよりは、悲鳴だった。
「ひっ」という男の声の後に、ばたばたと喧しい足音が鳴る。
おそらく、その声の主に見られたんだろう、今の僕の姿を。
驚くのも無理はない。
雨の日の夜、全身ーーもちろん、目も含むーーを腫らして、
片手片脚のもげた化け物が階段から転がり落ちてくるのだ。
目の焦点が合っていないから、なおさら性質が悪い。
驚くなというほうが無理な話だ。

246 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:06:54 ID:f9WrwJvo
永劫とも思えるような時間が過ぎた。
しかし彼女は現れない。
仕舞いに転がる階段が見当たらなくなった。一階に辿り着いたのだ。
壁を伝い、エントランスの出口を探す。
あとひとつ扉を押せば、外だ。
普通なら一分もかからずに扉には辿り着けるのだろうが、五分ほどかかってしまった。
触れた壁を押し、動くか確かめていると、こうなってしまった。
僕は力いっぱい扉を押し、外に転げ出た。
ひんやりとした石が、心地良く感じる。
跳ねた雨粒が、身体を濡らす。
屋根の下なのに、あっという間に服が身体に張り付いた。
汗のせいかもしれない。
それでも彼女は現れない。

247 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:07:30 ID:f9WrwJvo
異常に重い身体を引き摺り、外の世界に這い出た。
激しい雨が、身体を貫くように降り注ぐ。
僕の汚い部分だけを洗い流してくれるんじゃないかと期待していたが、そんな効果は微塵も無かった。
ただ、雨は降る。
どこへ向かおうか。
途切れそうな意識で、考える。
しかし、すでに身体は限界だった。
ゴール、あるいはスタートを目前にして、動けなくなってしまった。
最後の力を振り絞って、少し進んだ。
そこで、何か柔らかいものに触れた。
すでにそれは懐かしい感触だった。
僕は、それーーゴミ袋に寄りかかった。
乾いた音が、湿った雨音に重なる。

248 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:08:17 ID:f9WrwJvo
最後はゴミ捨て場から燃えるゴミといっしょに持ってかれて焼かれるのか。
なかなか悪くないだろ。
つまんない人生だったな。
そうでもないよ。
そうか?
思い出してみると、いろんな事があったもんだ。
そうだな。

249 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:08:51 ID:f9WrwJvo
彼女が僕を見つけてくれて、触れてくれて、捕まえてくれてーー
ーー僕は彼女に出会った。
彼女は僕を引きずり出してくれて、包んでくれて、癒してくれてーー
ーー僕は彼女に出会った。
彼女は僕を見つけてくれた。彼女は僕を見つけてくれたんだ。
あの娘のことばっかりじゃないか。他にはないのかよ。
ほんとうだな。馬鹿みたいだ。

250 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:09:26 ID:f9WrwJvo
泣くなよ。
言い損ねたことがたくさんあるんだ。お礼も言ってないし、ちゃんと謝りたいんだ。
なら、今から階段を這い上がれよ。
身体が動かないんだ。
なら、このままここで野垂れ死ねよ。
もう一度だけでいい、声が聞きたいんだ。
なら、黙って耳を澄ませろよ。ほら、聞こえるだろ?

251 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:09:58 ID:f9WrwJvo
「何してるの?」

252 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:10:35 ID:f9WrwJvo
ああ、聞こえた。
雨音にかき消されることなく、はっきりと胸の空洞に、こだました。
今、彼女は僕の隣にいる。
「君こそ、こんなところで何してるのさ」
しかし僕は、この期に及んでもそんなことを言った。
口の中が痛い。苦痛に唇が歪む。
きっと今の僕は化け物じみた貌をしているんだろう。

253 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:11:23 ID:f9WrwJvo
「そんなにわたしが信用できないの?」
彼女は僕の言葉を無視し、言う。それから僕の手を強く握って続けた。
「信じて。わたしは君を置いていったりなんかしない」
僕は何も言えなかった。
「わたしはここにいるよ。分かるでしょ?」
僕は何も言えなかった。
「お願いだから、いなくならないで」

254 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:12:04 ID:f9WrwJvo
「……知ってると思うけどさ、僕は昔からこうなんだ」
ようやく喉から滑り出したのは、くだらない自虐だった。
「いくつかの選択肢が目の前にあったとき、
僕はいつも間違いを選んでしまうんだ。
仮令、百の道のうちの九十九が正解だったとしても、必ず間違うんだ。
まるで、僕の選んだ道が正解であったとしても、
進み始めた瞬間に間違いに変わってしまうように感じる。
それで僕は今、また間違えたんだ。
でも君はいつも正しい。どこに進んでも正解なんだ。
君の後を追えば、僕もそういう人間に
なれると思ってたけど、それも間違いだった。
きっと、根っこの部分が違うんだろうな。
僕は君のそういうところが、ものすごく羨ましい。
そういうところに憧れて、焦がれるんだ」

255 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:12:55 ID:f9WrwJvo
「そんなことない」彼女は僕の冷たくて汚い身体を抱き寄せた。
「君は正しい。きっと今回は、これが正解なんだよ」
これが、正解ーー僕が、正しい?
頭の中が、ノイズのような雨音で埋まっていく。
僕には彼女の言葉の意味が理解できなかった。

256 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:15:35 ID:f9WrwJvo

彼女は僕を抱きかかえ、階段を上り始めた。
いくら今の僕が軽いといっても濡れた布が張り付いているし、
目指すのは十階だから、彼女にかかる負担は相当のはずだ。
「エレベーターで行こうよ」僕は言った。
「やだ」彼女はそのまま階段を上がる。
身体中が痛い。身動きひとつできやしない。
しかし彼女に抱きかかえられているというのが、ものすごく心地良い。
まるで赤ん坊にでもなったような気分だった。

257 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:16:09 ID:f9WrwJvo
「ねえ」彼女は、ゆっくりと階段を上る。
「君は、どこに行こうとしてたの?」
「さあ、どこだろう。どこか遠い場所、かな」
「なんにも考えてなかったってわけだ」
「君に助けてもらいたいって、結局、頭の中はそればっかりだった」
「そう」彼女は素っ気ない返事を残すと、口を閉じた。

258 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:17:12 ID:f9WrwJvo
長くはないが、短くもない。
雨音と足音だけが響き、彼女の匂いと雨の匂いが漂う。
そんな濃い時間は過ぎ、僕らは家に戻ってきた。
「お風呂、入ろうか」彼女は僕を床に下ろし、言う。
くたびれている様子だった。
口数が少し減っているように思える。「頭洗ったげる」
「ごめんよ。身体が動かないんだ」
「じゃあわたしが服脱がすけど、いいかな」
「君がいいんなら、僕はいいけど」
「もう今更恥ずかしいも何もないよね」
「恥ずかしいに決まってるだろう」
「そうなんだ」

259 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:18:50 ID:f9WrwJvo
「『僕は大丈夫だよ』なんて言っても無駄なんだろ」
「よく分かってるじゃないの」
「でも、できるだけ前は見ないでほしいかな」
「その心は?」
「たぶん、あれだから」
「ああ、あれね。あれなら仕方ないよね」
あれってどれなんだろう、と考えていると、
彼女は僕の肌に張り付いた服と格闘を始めた。
上の服が脱げるまで、四十秒ほどの時間を使ってしまった。
次いでズボンに手をかけたところで、
僕は思わず「ちょっと待って」と言った。

260 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:19:32 ID:f9WrwJvo
「何」
「ズボンは自分で頑張ってみてもいいかな」
「別にいいけど、動くの? 腕」
「なんとか」僕は腕を適当に揺すった。痛い。
「じゃあ、その間にわたしが脱ぐ」
「やっぱり、いっしょに入るんだ」
「うん」
なんとなく予感はしていたが、いざとなると口から内臓がこぼれ落ちそうになる。
「今更恥ずかしくも何ともないって?」
「いや、恥ずかしくて死にそう」
「僕の目が見えなくて良かったね」
確かに隣で彼女が服を脱いでいるのを見ることはできないが、
そうでなくても僕は顔が焼けそうだった。
「良くない」彼女は少々怒気を孕んだ声で呟く。「ぜんぜん良くない」
また余計なことを言ってしまったようだ。

261 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:22:17 ID:f9WrwJvo
水を吸った重い布が床に落ちて、いやな音を鳴らす。
それは彼女のパジャマの上なのか下なのか、それとも下着なのか、
とにかく僕は急いでズボンと下着を脱ぎ、タオルを腰に素早く巻いた。
それから痛む身体をなんとか引き摺りながら床を這い、風呂椅子の上に座った。
数秒後、思いっきりお湯を頭から浴びせられた。身体中がひりひりと痛む。
「人の頭を洗うのって、久しぶりかも」彼女は僕の頭に両手を置きながら言う。
「へえ。誰のを洗ったんだい」
「お父さんか、お母さんか、弟か、誰だったかな。ずっと昔のことだから、忘れちゃった」

262 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:23:04 ID:f9WrwJvo
彼女は両手に泡を立て、頭を擦り始める。「君の髪、思ったより長いね」
「まあ、だいぶ長い間切ってないからね」
「もっと綺麗にすればいいのに」
「髪切ったらかっこよくなるかな」
「ないね」彼女は言いきった。
「今の君は最高にかっこ悪い。見た目とかじゃなくて、内側が。
髪切ったくらいじゃ変わらないよ」
「分かってるけど、実際に言われるとちょっと傷つくな」
「でも、かっこ悪いのと魅力がないのは違うよ。かっこ悪くても魅力がある人はいる」
「僕は?」
「さあ、どうかな」
「まあ、別にどうだっていいんだ。かっこいいとか、かっこ悪いとか、
魅力があるとか無いとか。どうせ誰も見ちゃいないんだし」
本心だったが、どうも強がりを言っているようにも思える。
自分自身でもよく分からなかった。

263 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:26:01 ID:f9WrwJvo
「それに、僕はちょっと長い髪のほうが好きなんだ」
「どうして?」
「落ち着くし、なんか、生きてるって感じがする」
「よく分かんない」
「そっか」

264 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:26:45 ID:f9WrwJvo
彼女は口を結び、僕の頭を優しく擦る。
あまりの心地良さに、微睡んでしまいそうになる。
「人に頭を洗ってもらうのって、どうしてこんなに気持ちいいんだろう」
黙っていると、ほんとうに眠ってしまいそうだった。
「そんなに気持ちいいの?」
「寝ちゃいそうだ」
「寝てもいいけど、どうなっても知らないよ」
「君が僕を風呂場に置いていくとは思えないな」
「寝てる間にわたしに襲われても知らないよ」
「君に襲われるんなら、別に僕はいいけど」
「襲ってやりたいところだけど、わたしもちょっと眠いかな」
「そっか」

265 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:27:35 ID:f9WrwJvo
彼女は手を止め、僕の頭のてっぺんに勢いよくお湯を浴びせた。
泡が頬を伝い、身体にへばりつきながら落ちていく。
右脚の皮膚の内側から木屑のようなものがこぼれ落ち、水を跳ねさせる。
それから僕は彼女に抱えられ、浴槽に投げられた。
水面に身体を打ちつけ、勢いよく水が飛沫を上げる。痛い。
何が起こったのか、とっさには理解できなかった。
冗談ではなく、ほんとうに溺れてしまうかと思った。
「な、何するのさ」鼻に水が入り込んだようで、気色が悪い。咳き込んだ。
「わたしが髪を洗ってる間、湯船に浸かってもらおうと思って」彼女は淡々と言う。
「それにしても、もっとやり方があるだろう」
「わたしなりの愛情表現よ」
「なら仕方ないか」
僕は反論を諦めて、湯船に浸かった。
あたたかくて、瞼が異様に重い。
全身から痛みと力が流れ出ていくような心地良さに包まれる。
体液さえも流れ出ていってるように感じられる。

266 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:28:59 ID:f9WrwJvo
目を閉じると、瞼の裏に彼女の笑った顔が見えた。
嬉しくなって、笑みがこぼれる。
このまま眠ったら、幸せな夢を見ることができるような気がした。
しかしそのとき、顔に大量のお湯が飛んできて、僕の意識は半覚醒から呼び戻された。
「今度は何だ」
「何だと思う?」彼女は僕の正面で言った。
「愛情表現?」
「惜しいかな」
「じゃあ何だ」
「何だろう。気付いたら飛び込んでた」
「ちょっと待って。今、君は僕の正面にいるんだよね。こっちを向きながら喋ってる」
「うん」彼女は僕の頬に触れた。僕は急いで身体を反転させた。

267 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:29:54 ID:f9WrwJvo
「こっち向いて」彼女は言う。「逃げないで」
「……どうして君は僕に良くしてくれるんだ?」僕は彼女に背を向けたまま言った。
「安っぽい答えだけど、好きだから。ほっとけない」
「……僕には君を惹きつけるような何かがあるのかな」
「そういう魅力が皆無だからこそ、わたしは君をほっとけないのかもね」
「酷いな」僕は笑い、つむじを正面に向けながら身体を反転させた。
「ちゃんとこっち見て」
僕はゆっくりと顔を上げた。
「わたしを見て」