Part10
213 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:20:29 ID:
zmKypy7U
「ちゃんと掴まっててね」彼女は歩を進める。身体が上下に揺れる。
「分かった」腕を彼女の身体に巻きつける。
僕は彼女の背中に密着している状態になった。
心臓が早鐘を打っている。一向に鳴り止まない。むしろ感覚は短くなってゆく。
これは明らかに彼女の骨くらいにまで響いている。
彼女はどう思ってくれているのか、頭にはそのことしかなかった。
胸の辺りに、人のぬくもりが伝わってくる。
やがてそれは僕の身体中に広がり、心地良い安らぎを与えてくれた。
彼女の肩に火照った頭を置き、思いっきり息を吸い込んだ。
彼女の声が聞こえて、彼女の体温を感じられて、彼女の匂いがする。
もう、それでいいじゃないかと感じてしまう。死んでもいいのかもしれないな、と。
もう一度深呼吸すると、「くすぐったいよ」と小さな声が聞こえた。
214 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:21:01 ID:
zmKypy7U
しばらくすると、柔らかい椅子の上に放り投げられた。車の助手席だろう。
「もう終わりなのか」
「何が」彼女は僕の右隣で言った。おそらく運転席に座っているのだろう。
「おんぶ」
「なに、もっとしてほしかったの?」
僕は黙って頭を縦に振り、肯定の意を示した。
もう隠すのも誤魔化すのも、めんどくさい。
もう隠さなくても、誤魔化さなくてもいいんだ。
「また後でね」彼女の声に被さるように、スピーカーから音楽が流れ始めた。
僕の意思が彼女に伝わっているというのが、たまらなく嬉しい。
彼女は、きっと僕を見てくれている。
215 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:22:29 ID:
zmKypy7U
*
真っ暗だ。聞こえる音も変わらない。
でも、匂いが違う。
彼女の家の匂いだ。
視覚が死んでしまったせいか、
やたらと聴覚と嗅覚が研ぎ澄まされているように思える。
次は味覚か、聴覚か、嗅覚か、触覚か。
それとも、全部一気に駄目になるか。
全部飛び越えて、頭が駄目になる可能性だってある。
よく分からない。
216 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:23:06 ID:
zmKypy7U
僕はふたたび彼女に担がれ、十階の部屋まで連れてかれた。
階段で上れば、より長い時間を彼女の背中で過ごすことができたのだが、
さすがにそれは彼女に悪いと思わざるを得なかったので、
黙ってエレベーターで昇ってきた。
彼女の背中で過ごしている時間は、実際には
二、三分ほどなのだろうが、もっと短く感じられてしまう。それこそ、一瞬のように感じる。
それに比べ、ひとりでいた時間は、永劫の中に閉じ込められたような苦痛を感じていた。
知らない間に、時間の感覚がおかしくなってしまったんだろうか。
217 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:23:48 ID:
zmKypy7U
しばらくすると、柔らかい何かの上に放り投げられた。
ソファーか? それにしては少し硬い。
「よし。じゃあまずは、わたしの布団で寝るか、ソファーで寝るかを選ばせてあげよう」彼女は言う。
「ソファーで」僕は即答した。
「何?」
「ソファー」
「んー?」
「……」彼女の中では答えは決まっているらしい。
真っ直ぐな人ってのは、なかなか厄介なところがある。
特に、僕のように根っこが腐っていて捻じ曲がりそうな人間にとっては。
「病人は病人らしく布団で寝なさいよ」彼女は嬉しげに言った。滅茶苦茶だ。
218 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:25:03 ID:
zmKypy7U
「結局選べないんじゃないか。なんで訊いたのさ」
「『君の布団で寝たい』って言ってくれると思って」
「ほんとうはそうしたいところだけど、君の布団が無くなるじゃないか」
「わたしはソファーでも寝られるし、ふたり同じ布団で寝ることもできるよ」
「冗談だろ」
「わたしと寝るのはいやなの?」
「いやじゃない」僕は彼女の声に被せて言った。「いやじゃないけど」
「けど?」
「僕といっしょに寝るのは、いやじゃないかと思って」
「なんでそう思ったの?」
「だって、君が朝起きたら、隣に片腕と片足がなくて目の焦点の合ってない男がいるんだよ?」
「だから何なのよ」彼女は言い張る。
僕は踏ん張った。「そんな気持ち悪いやつに襲われるかもしれないんだよ?」
自分で言っておいて、悲しくなる。
同時に、思い出した。
今の僕は、腕と脚が無くて目の焦点の合ってない気持ち悪い野郎なんだ。
219 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:25:45 ID:
zmKypy7U
「わたしのこと襲っちゃうの?」
「襲わない。襲わないけどさ」
「襲わないの?」
「襲わない」
「じゃあ同じ布団でも大丈夫だね」
「やっぱり襲うかもしれない」
「それでも同じ布団で大丈夫だね」
「もういい。分かった」彼女には敵わない。
こうなったら、もう諦めるしかない。「君の布団で寝させてもらう」
「最初から正直にそう言えば良かったのに」
220 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:26:29 ID:
zmKypy7U
「君はほんとうに滅茶苦茶だな」
「滅茶苦茶じゃなくて、真っ直ぐって言ってほしいかな。まあ、そんなことよりも」
真っ直ぐな彼女は話を無理やり折り曲げた。
「そろそろお昼だよ。何か食べたいもの、ある?」
「食べたいものねえ」真っ先に浮かんだのは、くだらない冗談だった。
言ったら怒られるだろうか。どうだろう。
今なら怒られないような気もするけど、結局恥ずかしくて言えなかった。
代わりに、「言わなくても分かってるんじゃないの?」と言ってやった。
221 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:27:03 ID:
zmKypy7U
「あれだよね」と彼女は呆れ気味に答える。
「あれだね」
「ほんとうに好きだよね」
「大好きだよ」
「わたしとどっちが好き?」
「迷うなあ」
「迷わないでよ」
「僅差で君の勝利かな」
「僅差なんだ」
結局、お昼はふたりで仲良くスパゲッティを頬張った。
222 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:27:48 ID:
zmKypy7U
*
「いざ寝るとなると恥ずかしいもんだね」
彼女がそう言うので、結局ひとつの布団の上でお互いに背を向け合って、
触れない程度の距離を保って眠ろうということになった。
身体が布団からはみ出している。おそらく彼女も似たような状況なんだろう。
「何やってるんだろう、わたしたち」
「さあ」
「なんか馬鹿みたいだよね」
「確かに」彼女が言いたいことを全部言ってくれたので、
僕はそれ以上は特に何も言わなかった。彼女もそれっきり黙り込んだ。
223 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:28:47 ID:
zmKypy7U
居心地の良い沈黙が訪れる。
時計の音と、エアコンが冷風を吐き出す音が室内に響く。
「今の僕は幸せなんだろうなあ」だとか、「このままでいよう」
などと思いながらも、僕は何故か喋り出してしまった。
「君の家で寝ると、いやな夢を見るんだ」
始めてここで眠ったときのことを思い出したのだ。
「いやな夢って?」
「君が僕を見捨てて走り去っていく夢、とか」
「夢の中のわたしは酷いやつなんだね」
224 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:29:53 ID:
zmKypy7U
「『わたしはレズビアンなんです』とか衝撃の告白をして走ってったんだ。
夢の中の僕は、『は?』って言った後にわんわん泣いたね」
「馬鹿じゃないの? 普段からそんなくだらないこと考えてるから夢に出るのよ」
「心外だな」
「じゃあ普段は何を考えてるっていうのよ」
「ある女の子のことを考えてるんだ。その娘のことを考えると夜も眠れない」
「馬鹿じゃないの」
それっきり、僕も彼女もだんまりだった。
仕舞いには彼女の寝息が聞こえてきた。
もちろん僕はほとんど眠れなかった。
225 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:30:23 ID:
zmKypy7U
*
途切れる意識の中で、ぼやけた夢を見た。
彼女が、僕から遠ざかっていく、夢ーー
226 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:33:14 ID:
zmKypy7U
続く
正直、長すぎたんじゃないかと猛省している
227 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:43:33 ID:FUV0m4uI
全然長くないよ
すげえ読み込んじまった
お疲れ
229 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 08:55:42 ID:aISVZm2I
乙! 読みやすいし、長さは苦にならない。
悲し過ぎるのが難点だけど
230 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 11:06:18 ID:TYwckOkE
全く苦にならない長さだよ
所で俺の涙腺も壊れかけてるみたいだ、何故か涙が…(/_;)
231 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:47:03 ID:
f9WrwJvo
6
見えなくても分かる。
僕がここに連れ去られてから約二週間が経って、彼女は疲れてきている。
たったの二週間だが、心身にかかる負担は相当なものなんだろう。
仕事が終わっても家には木偶の坊がいて、
そいつの世話をしてやらなくちゃならないのだから、たまったものではない筈だ。
仕事も上手くやっているのだろうかと、心配になってしまう。
それでも彼女は僕に疲労の色を見せまいと、
普段と同じように振舞ってくれている。
好きなアーティストの新譜が出ただとか、
好きな作家の本が出るだとか、同僚とこんな話をしたとか、
中学校のころの友人にあった(僕のことは憶えていなかったけど、なんとか思い出させたらしい)だとか、
何でもない話を冗談を交えて話してくれる。
それを聞いていると、ものすごく息苦しい。
彼女の手で圧迫されているかのように、とにかく胸が痛む。
232 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:48:27 ID:
f9WrwJvo
彼女の内側には彼女ではない何かがいて、
そいつが今の彼女を無理やり突き動かしているように思える。
後戻りできなくなって、やけくそになっているんじゃないかと疑ってしまうほど、今の彼女は明るい。
僕の目が正常だったなら、きっと眼球が潰れてしまうほど眩しいんだろう。
233 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:49:58 ID:
f9WrwJvo
九月九日。外では激しい雨が降っている。
「おやすみ」彼女はそう言い残し、今日も死んだように眠る。
疲弊しきった身体を無理矢理押さえつけ、意識を無意識に沈める。
ほんとうに死んでしまったんじゃないかと不安になるが、
ときどき聞こえてくる寝息が僕を安堵させ、同時に、それをたまらなく愛しく思う。
背中が触れるたびにあたたかい何かが伝わってきて、息が苦しくなる。
咳き込んで、鼻を啜った。
234 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:51:14 ID:
f9WrwJvo
それから目を開いて暗黒を見つめながら、無駄なことを考える。
何度も何度も何度も、考える。
彼女は何のために生きているんだ?
自分の心身を削いで、足枷を愛でて、死んだように眠る。
「大丈夫」とは言ってくれているが、ほんとうにそうなのか?
僕が言えた身ではないのは承知だが、そう考えてしまう。
果たして僕には、彼女のもとの生活をぶっ壊して、
その心身を酷使させるほどの価値があるのだろうか?
235 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:52:17 ID:
f9WrwJvo
馬鹿だな。そんなの分かりきってることだろ。
そうだよな。
お前は昔からそうなんだよな。悪い方向にだけは、ぐんぐん進めるんだ。
良い方向になんて進めても、尺取虫にすら追いつけやしない。
そうだな。
ちょっとくらい信じてみたらどうなんだ。
信じてるけど、彼女が壊れたら元も子もないじゃないか。
彼女は壊れないって信じろよ。
彼女が自滅するようなことはないと信じているけれど、
僕が彼女を壊してしまう可能性は、ある。
壊すってのは、女として? 人間として?
どっちもだ。
お前にそんな度胸があるのかよ。
可能性の話だろうが。
236 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:53:10 ID:
f9WrwJvo
じゃあ、どうするんだ?
ここから出ていく。
お前にそんな度胸があるのかよ。
度胸とかじゃなくて、限界なんだ。
彼女じゃなくて、僕が耐えられなかった。風船が割れちまったんだ。
風船?
希望みたいなもんさ。
罪悪感に潰されちまう程度の希望か。
無くなったところで大したことないだろ。
そうなんだ。まともな人間ならそうだ。
ところが僕にとって、それは唯一の希望だった。
ちゃっちい希望だな。
僕にはぴったりだ。
237 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:56:42 ID:
f9WrwJvo
で、いつ逃げるんだ? 一週間前くらいからずっと同じこと言ってるけど。
今日。
それ聞いたの八回目なんだけど。
今日だ。
九回目。
今日だ。
十。
死んじまえ。
八十五。まあ何でもいいけど、頑張れよ。
お前もいっしょに来るんだよ。
僕は大事なものを捨てなきゃなんないんだ。大事なもののために。
238 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:58:00 ID:
f9WrwJvo
布団の外に腕を伸ばし、周囲を探る。
特にこれといったものはなかったので布団から這い出し、
ひとつずつの手と脚で身体を引き摺りながら寝室の戸に向かった。
扉をさするように触りながら、ドアノブを探す。
二秒も立たずに見つかった。
力をかけて扉を開き、隙間から這い出る。
廊下には身体が溶けてしまうんじゃないかと思えるほどの熱が籠っていた。
その廊下の壁を伝い、今度は玄関を目指す。
目的地には三十秒もかからずに辿り着いた。
鍵とロックを外し、寝室のときと同じように扉を開け、隙間から外に出た。
239 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:58:58 ID:
f9WrwJvo
扉が重い音を鳴らして、閉まる。
辺りは静寂に包まれることなく、雨が爆音で地面に撃ちつけている。
この音で彼女が起きてこないかと心配になったが、
同時に、僕が逃げ出したことに気付いてほしいとも思った。
しかし、一分ほどそこに留まっていても、扉は開かなかった。
もしかしたら、雨音で聞こえなかったのかもな。
いや、これでいいんだ。
僕は考えながら、階段を探すために壁を伝って這いだした。
240 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:00:08 ID:
f9WrwJvo
階段は程無く見つかった。
深呼吸して歯を食いしばり、そこから転げ落ちた。
壁に激突し、止まる。腕と後頭部に強い痛みが通り抜ける。
ここの階段はしっかりとした壁があったはずなので、おそらく死ぬことは無い。
まあ、仮令ここに壁が無かろうと、何の問題もなかったが。
もう一度転げ落ち、九階に辿り着いた。
一階に下りるには、これをあと十八回繰り返さなければならない。
途中で死なないといいけど、すでに身体中が痛む。