未 本編2
Part1
401 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:17:16.64 ID:HrRb/QUY0
『とかの』に帰り着いたとき、腕時計を見ると午後四時半を回っていた。
旅館の玄関から中へ向かって楓が「ただいま」と声を張り上げる。少しして女将がフロントの奥から姿を表した。
「どうでしたか」
「いやあ、期待はずれですね」
師匠は明るくそう言って、山の上からの景色についてしばらく女将と語り合っていた。僕は地滑りの跡で見つけた石についてどうして黙っているのだろうと疑問に思った。
その師匠の横顔がスッとこちらに向き直る。
「おい、次を見に行くぞ」
「え」
まだどこか行くんですか。
師匠は女将にこのあたりの道を尋ねている。
つい、つい、と袖を引かれた。楓が耳元に顔を寄せてくる。
「なに」
「あの人ほんものなの?」
「なにが」
「霊能力者」
まあ確かにここまでは、まったくそれらしい所を見せていない。
「テレビに出てくるのとは違うけど、霊を見ることに関しては凄いよ」
霊感が強いだけの人なら他にもいるだろうが、師匠の本当に凄い所は、その見たこと、体験したことに対する料理の仕方なのだ。
それはある意味、探偵的と言えるかも知れない。つまり興信所の調査員であるこの今のスタイルで正解なのかも知れなかった。
「ふうん。まあいいや。で、付き合ってんの?」
いきなりすぎて吹きそうになった。
「助手だよ」
「それもう聞いた」
「まあいいじゃないか」
ああ。やってしまった。明確に否定しないという、見栄。
軽い罪悪感に襲われていると、二人でひそひそやっているのが気になったのか、和雄が「なになに」と近づいてくる。
「よし、行くぞ」
師匠に服を掴まれる。軽く引きずられながら「どこへ?」と訊くと「この旅館の周辺の調査」
402 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:22:21.36 ID:HrRb/QUY0
ようするに散歩ですか。
という軽口が出そうになったが、クライアントの前なのでさすがに自重した。
「また案内したいですけど、ごめんなさい。これから用事があって」
楓が頭を下げる。高校時代の友だちとクリスマスイブパーティをするらしい。
それを聞いて、僕はようやく今日が十二月二十四日であることを思い出した。
思わず和雄の方を盗み見するが、「いいあなあ」などと余裕ぶっている。しかし内心はどうだか分からない。
「じゃあ、僕もそろそろ帰ります」
旅館の外に出ると、和雄もそう言って敷地の隅にとめてあったバイクに跨った。排気音とともに手を振りながら去っていく姿を見送る。
「あ〜あ、かわいそうに、あいつ」
人ごとのようにそう言う師匠だったが、十二月二十四日という今日は僕らにも平等に訪れていることを分かっているのだろうか。
「日が暮れる前に行くぞ」
そう言って歩き出した。すでに日の光は西の山の端へ隠れつつあった。
それから小一時間かかって周囲を散策しながら枝川沿いに旅館へ来たときの道を逆に辿っていった。寂しい道で、あまり地元の人ともすれ違わなかった。
やがて道路沿いに背の高い金網で覆われた一帯が見えてくる。来たときに見た貯水池だ。周囲はすでに薄暗く、膨大な水量を蓄えた水面は輝きもせず、死んだようにひっそりとしていた。
金網のそばに看板があった。
『亀ヶ淵(かめがぶち)』という名前のこの貯水池は、応仁の乱の後に戦国武将が各地で覇権を競い始めたころ、この地に侵攻してきた高橋永熾(ながおき)が自身の勢力の新しい拠点として今の西川町一帯を封じた時に作ったものだそうだ。
枝川の水量が安定せず石高が伸びなかったこの地に、持参した地金を惜しげもなく投じて土木工事を行ない、巨大な水瓶を提供したのだ。
師匠はその看板の説明文を読み終えて、ぼそりと言った。
「問題の若宮神社は、この武将が開いたのかも知れないな」
「どうしてですか」
403 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:25:22.50 ID:HrRb/QUY0
「若宮って名前のつく神社は、例えば大分の宇佐神宮を本宮とした場合、その御祭神である八幡神こと応神天皇の子、つまり御子神であるところの仁徳天皇を祀った神社のことだ。
あるいは、単に本宮から新たに迎えた御祭神という意味で若宮と呼ぶ場合もある。その場合は八幡神である応神天皇の分霊を祀っている神社ということになる。
いずれにしても、基本的には本宮ありきの神社なわけだ。そして本宮から新たな若宮を勧請してくるのは、国司やその地の豪族などの実力者と相場が決まっている。
戦国時代にあっては、その役割の中心を担ったのが……」
戦国武将というわけか。
高橋永熾が元々の勢力圏で信仰していた神社から、新たな支配地であるここへ、その御子神か分霊を勧請してきたということならば、確かにありそうだ。
「もう少し調べてみたいな」
いずれにしても、その若宮神社に行って宮司と話をしてみる必要があるだろう。時計を見ると、まだ六時だった。さっきその時間を告げる鐘の音が鳴ったばかりだ。訪ねて行けない時間でもない。
その息子である和雄と面識があるので、話も通しやすいだろう。
しかし師匠は少し考えた末、「また、明日にしよう」と言った。
とりあえず、その旅館に出るという霊とやらを見てみるのが先だということか。
「戻って、飯食おうぜ」
踵を返した師匠に、頷いてから後に続いた。
そう。それが気になってしょうがなかったのだ。旅館の夕食ということで、料理を期待しても良いのだろうか。それとも僕らは仕事で来ているのだから、「え? そちらの夕食は用意していませんが」とあっさり言われたらどうしよう。
近くに弁当とかパンを買える店があったかなあ、と思い悩みながら歩いた。
ようやく『とかの』に帰り着くと、玄関のあたりが妙に騒がしかった。見ると二十代半ばくらいの女性が四人、たむろしていた。
ああ、そういえば今日は僕らの他に二組、客がいるって聞いてたな。
「こんばんわ」
師匠は愛想よく挨拶をして旅館の中に入る。
「あ、こんばんわ」
出迎えた番頭の勘介さんに荷物を渡しながら、女性たちもこちらに笑顔を向けた。みんな暖かそうな服装をしている。仲良しOL四人組というところか。
404 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:28:24.18 ID:HrRb/QUY0
それもクリスマスイブに温泉旅館に泊まるってことは、恋人のいない仲間同士ということだろう。
玄関を通り抜け、廊下の手前で師匠にそのことを囁くと、おもむろに腕時計を見て、その針を示しながら口を開いた。
「日没の後だから、『クリスマスイブ』の用法としては正しい」
まだこだわっているのか。
「あ、ちょうど良かった」
仲居姿の広子さんが僕らの前に現れて、手招きしながらフロントの奥へ入っていく。
「電話かかってきてるみたい」
事務所の電話をとっていた女将がこちらに気づいて、電話口に軽くお辞儀をしてから師匠とかわる。
受話器から声が漏れている。大きな声だ。
「お食事、お部屋にお持ちしますので、それまでおくつろぎください」と僕に言って、女将は忙しそうに事務所から出て行った。
師匠はうざったそうにあしらうような口調で話し終え、受話器を置いてから溜め息をついた。
「例の婆さん。この宿の馴染み客で、わたしを女将に紹介したひとだよ」
ああ、頼みもしないのに方ぼうへ師匠のことを宣伝しているという人か。
「万事任せておけば大丈夫だから、失礼のないようにしなさい、って女将に釘刺してくれたんだと。……他に余計なこと言ってないだろうな、あのばあさん」
そう言って苦笑する。
「自分も正月泊まりに行くから、幽霊退治よろしくな、ってさ」
それから部屋に戻ろうとすると、師匠が「ついでに電話するところがあるから、先に戻ってろ」と言う。
調査事務所の所長の小川さんに今日のことを報告でもするのだろうかと思い、あてがわれた二階の部屋に一人で戻った。
足を投げ出してテレビをぼんやり見ながら先に汗を流そうかと考えていると、広子さんがやって来て、隣の部屋を指さしながら言う。
「先、ご飯食べたいって言うから、あっちの部屋で、一緒でいい?」
師匠も部屋に戻ったのか。もちろん従うほかはない。
広子さんもその僕らの間の力関係というか、雰囲気を、すでに理解している様子で、一応確認というポーズを取っているだけのようだった。
その後、師匠の部屋にお邪魔し、テーブルに向かい合っていると「失礼します」と女将が広子さんを伴って入ってきた。
405 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:32:37.03 ID:HrRb/QUY0
そして目の前に、色鮮やかなお膳が並べられる。
紹介してくれたお婆さんの口添えが効いたのか分からないが、期待以上の食事にありつけた。
山菜の天麩羅など山の物が多かったが、普段美味しいものを食べつけない僕ら貧乏学生にはどれも過ぎた料理ばかりで、二人とも何度もご飯をおかわりして給仕してくれた広子さんを呆れさせた。
師匠は最後に茶碗に残ったご飯にお茶を注ぎ、白菜の漬物を乗せてからかき込んだ。そしてようやく人心地がついた、という表情で箸を置く。
さすがに晩酌はなかった。師匠はそれが少し物足りなそうだった。しかしこれからが仕事の本番なのだ。
そこへ頃合を見計らった女将が部屋に戻って来た。
「いかがでしたか」
そう訊かれて、二人とも素直に料理を褒めた。温泉地としてはあまり有名ではないこの土地で、旅館を三代に渡って続けられているのもこうした付加価値があるからかも知れない。
「少し、いいですか」
師匠は改まった口調で女将に問い掛けた。
「はい」
女将は広子さんにお膳を片付けさせながら、着物の裾を綺麗に整えながらテーブルの脇に正座をした。
そんな風にされるとこちらも落ち着かず、僕は思わず座布団の上に正座で座りなおす。師匠は気にしない様子で、あぐらをかいたまま女将に話しかけた。
「若宮神社は、この先の貯水池を作った高橋永熾が勧請した神社ですか」
「ええ。そう聞いております」
高橋家はその後、息子の代で別の戦国武将に攻め滅ぼされたのだそうだ。それ以来、この地は徳川幕府が開かれるまで、何度も支配する武将が変わっていった。
すらすらと喋る女将からのその言葉の端々から、かなりの教養のほどが窺える。
感心しながら聞いていると、師匠は少し考えるそぶりを見せた後、話題を変えた。
「この裏山ですが、もしかして大規模な土砂崩れが起きたことがあるんじゃないですか」
女将はハッとした表情を見せる。
ついさっき、山から戻って来て「期待はずれでした」なんて言っていたくせに、結局訊くのか。
それにこの部屋で仕事の話をすると主客が逆転してしまう、なんて言っていたのに、もうめんどくさくなったのか。
半ば呆れながら師匠と女将の会話に耳を傾ける。
406 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:36:44.05 ID:HrRb/QUY0
「ええ。私が小さいころですから、もう三十年以上前になるでしょうか。このあたりに記録的な大雨が降ったことがございまして……」
降り止まないどころか、ますます勢いを強くする雨に、子どもながらなにか大変なことが起きているということは分かったのだそうだ。
その日、折からの大雨のために『とかの』に客はいなかったのだそうだが、旅館中をみんながバタバタと落ち着かずに動き回り、夕方ごろには父親と、まだ健在だった祖父とが血相を変えて「裏山を見てくる」と雨具を被って出て行った。
近くの他の家からも大人が何人か雨の中に出てきて、山の方へ向かったようだった。
恐る恐る玄関から外を見ていると、滝のように轟々という音を立てて降ってくる雨の中から「川には近づくなよ」という誰かの声が混ざって聞こえた。
しばらくすると、ふいに地響きのような音が雨空に唸りを上げた。それは耳を塞いでも聞こえてきた。恐ろしい音だった。
住み込みの男性従業員が「崩れたんじゃないか」と叫んで、雨の中に飛び出していった。
父と祖父のことが心配で、気がつくと自分も外に出ていた。バケツをひっくり返したような大粒の雨が絶え間なく上空から落ちてくる。その雨の中を合羽も着ずに走った。視界は悪く、片手で額を覆っても目を開けることが困難だった。
山の方から大人たちの大声が聞こえてきた。「崩れた」「危ない」という言葉が聞こえた。
その中に、父と祖父の声もあって、ホッと胸を撫で下ろした。
安心すると、「見つかったら叱られる」ということに気がつき、「早く戻らないと」と引き返そうとした。
その時、ふいに桜の木のことが頭に浮かんだ。枝川の土手にある桜だ。土手の壁面から斜めに生えていて、増水した時には根元が水に浸かるんじゃないかといつも心配していた。
思わず川の方へ足を向けた。
降りしきる雨の中、目を凝らしても桜の木は見えなかった。このあたりのはずなのに。流されてしまったのだろうか。
土手に近づいて川の方へ目をやると、今までに見たこともないような濁流がうねりを伴って川上から川下へと流れていた。
恐ろしくて足が動かなかった。雨音と川の奔流の音で耳が痛い。
全身を鉛のような雨粒に叩かれながら、猛り狂う川の流れから目を離せないでいると、狭い視界の端に、不思議なものが映った。
407 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:39:53.29 ID:HrRb/QUY0
物凄い速度で流れていく泥水の中に、真っ黒い動物の身体が見えたのだ。その胴体は途方もなく長く、波打っていて、濁流に乗り目の前を通り過ぎようとしていた。
蛇だ。
それも、胴だけで一抱えもある、とてつもない大蛇。その身体が怒り狂うようにうねりながら大雨と濁流の中を流れて行く。
息を飲んでその行方を見守る。遥か彼方へその姿が消え去ってもしばらくその場を動くことができなかった。
「なにしてる、こんなとこで」
怒鳴り声とともに祖父に手を掴まれた。なかば引き摺られながら『とかの』に向かっている間、「おじいちゃん、蛇が、蛇が」と喚いた。
祖父はギョッとした顔をしたが、「変なことを言うんじゃない」と叱りつけた。
『とかの』に戻ると、祖父がここは危ないので小学校へ避難すると宣言し、全員で雨の中を逃げた。
その間中、自分の頭の中には、のたうつ大蛇が川を流されていく姿が何度も繰り返されていた……
語り終えた女将は、我に返ったように慌てて「おかしなことを申しました。子どものころに見た幻でございます」と付け加えた。
師匠は興味津々という顔で、「その後はどうなりました」と尋ねた。
「ええ。幸い、山が崩れたのは川側の方だけでして、結局旅館の方は大丈夫でした。その後、役場が委託した調査会社の方が調べたところによると、今後また万が一土砂崩れがあっても、やはりこの『とかの』の方へは崩れてこないということでしたので、ご安心ください」
ちゃんと、忘れずにフォローもしている。なかなか抜け目ない人だ。悪い噂などどこから広がるか分からないのだから。
「その、大雨の日の土砂崩れの前にも、やっぱり裏山には神社の跡などはなかったんですね」
「ええ。なかったはずです」
「わかりました。ありがとうございます」
師匠はあっさりとそう言うと、女将の祖父のことや先代である父親のことをあれこれと訊いた。
祖父はもちろんだが、父親も母親ももう亡くなっていた。そして入り婿であった女将の夫、つまり楓の父親も十年ほど前に病気でこの世を去ったのだそうだ。
408 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:42:28.81 ID:HrRb/QUY0
師匠はこの戸叶家の事情をおおよそ訊き終えて満足したのか、最後に「では、今夜はわたしと、この助手とで夜中じゅう、交代で番をします」と言った。
他の客が寝静まってから、これまでに神主の霊の目撃が多かった場所を中心に見張るというのだ。
「もしそれまでに出たら、とにかくすぐにわたしに知らせてください」
女将は、「従業員もすべて承知しておりますので、よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
お茶をいれなおしてから女将が部屋を出て行った後で、師匠はニヤリと笑って言った。
「こいつは、カナヘビちゃんだぜ」
カナヘビ?
なぜここでカナヘビが出てくるのか。
その意味を訊いても、はぐらかすように「風呂風呂、風呂に入ろう」と手を叩くだけだった。
◆
「ねえ、あれ彼氏?」
「違うよ」
「うそぉ」
「まじで」
……
そんな黄色い声が頭の向こうから聞こえて来る。
露天風呂だった。
和雄の言うとおり、広々としていてなかなか良い湯だ。そんな所を一人で占拠するのはなんとも言えない良い気分だった。
岩に頭をもたせ掛けて空を見上げていると、ざぁー、と身体を流す音が遠くから微かに聞こえる。頭の先には竹を組み合わせた壁があり、その向こうには女性用の露天風呂があるはずだった。
湯気が夜空に上っていき、澄んだ空気の果てにある星をゆらゆらと隠していく。
寒空の下、顔は冷たいのに、身体だけは温かい。いつもはシャワーばかりでお湯につかるという習慣がない僕だったが、こういうのもたまには良いものだ。
「ねえ、ほんとに彼氏じゃないの」
「ほんとだよ」
409 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:44:48.00 ID:HrRb/QUY0
消極的な見栄を張った僕とは大違いだ。
ズルズルと背中を滑らせ、そのまま頭の先まで湯の中に沈み込んだ。頭の芯まで熱が入り込んでくる。
「彼氏じゃないのに、旅行してんの?」「なんかそっちの方がやらしい感じ」などという声が水を通して聞こえてくる。
師匠はさっそくOL四人組と仲良くなったようだ。師匠は今二十四歳のはずだから、同い年くらいか。
そうだよな。普通なら働いている年齢なのだ。それどころか子どもがいてもおかしくない。
湯の中に沈みながら、一人でそんなことを考えている。
師匠からはあまり、大人の女、という感じを受けない。子どもがそのまま大きくなったようだ。
なんだっけ。生物学上で、こういうのを。ウーパールーパーとかサンショウウオがそうだよな…… 思い出した。ネオテニーだ。幼形成熟、だったっけ。
まあ師匠の場合、あくまでその性格上の話だが。
頭の中でサンショウウオの姿がぐねぐねと変形し、図鑑で見たカナヘビの姿に変わった。
こいつは、カナヘビちゃんだぜ。
湯から顔を出して、師匠の言葉を反芻する。
女将が見たという大蛇はなんだったのだろう。あの枝川にはそういう『主』の言い伝えは特になかったそうだ。では一体?
大雨。土砂崩れ。大蛇。
あの裏山で師匠が見つけた石に刻まれていた不思議な雨冠の漢字となにか関係があるのだろうか。
そしてそれはこの神主の霊が出るという事件と関係があるのだろうか。
真剣に考えを巡らせていると、また女湯の方から嬌声が上がった。
「もうヤったの?」
「やってないよ」
「うそぉ」
「まじで」
動揺した僕は湯の底についていた手を思わず滑らせてしまった。バシャンという音が立つ。
「ねえ、隣で聞いてるんじゃない」竹で編まれた壁の向こうからの声。続いて、キャーキャーという笑い声。
もう出よう。
410 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:48:29.33 ID:HrRb/QUY0
僕はいたたまれなくなって露天風呂から上がる。ドアを開けて大浴場の方へ戻ると、頭の禿げた父親と小学生くらいの息子が身体を洗っていた。もう一組の泊り客の家族だ。
「こんばんわ」と挨拶をして脱衣所へ向かった。
出なかったな。
和雄が神主の霊を見た、という露天風呂だったがそれらしい姿も気配も、なにもなかった。
浴衣に着替えから廊下に出て、「湯」と書かれた暖簾の前に置いてあった藤製の長椅子に腰掛けて、なにをするでもなく、ただ湯あたり寸前にまで火照っていた身体を冷ましていた。
しばらくぼうっとしていると、師匠を含めた女性陣がもう一つの「湯」と書かれた赤い暖簾の下からわらわらと出てきた。
「あ、やっぱりいた」
なにがやっぱりなのだ。
OLたちはあっちに卓球台があったから、みんなでやりませんか、と誘ってくる。
あ、いいな。卓球は久しぶりだ。温泉に来るとどうしてこんなに卓球をやりたくなるのだろう。
その騒々しい一角に、タオル類を満載した台車を押している勘介さんが通りがかった。
じっとりと睨むような目つきで僕らのそばを通り過ぎる。
『観光気分か……!』
そう詰られたような気がした。
「ああ。ええと、わたしたちは遠慮しとくよ。な」
師匠に話を振られて「はい」と返事をする。
「じゃあさっきお願いしたとおり、オバケっぽいのを見たら教えてね」
師匠はOLたちに手を振りながら僕を引っ張っていく。
それから僕らはまた旅館中を視察して回った。中庭や裏の駐車場を含めて見て回ったのだが、昼間と同じで特に異変は見当たらなかった。
仕方なく一度師匠の部屋に戻り、なぜか備え付けてあった将棋盤を見つけたので二人でパチリパチリと指しながら、今日あったことを確認する。
「なんなんでしょうねえ、神主の幽霊って」
「さあなあ。見てみないことにはな」
「あの、裏山の石に書かれていたっていう漢字となにか関係があるんですか」
「さあなあ」
師匠は気のないような素振りで情報を秘匿していた。明らかになにか掴んでいるような感じなのだが、いつものようにもったいぶっている。
『とかの』に帰り着いたとき、腕時計を見ると午後四時半を回っていた。
旅館の玄関から中へ向かって楓が「ただいま」と声を張り上げる。少しして女将がフロントの奥から姿を表した。
「どうでしたか」
「いやあ、期待はずれですね」
師匠は明るくそう言って、山の上からの景色についてしばらく女将と語り合っていた。僕は地滑りの跡で見つけた石についてどうして黙っているのだろうと疑問に思った。
その師匠の横顔がスッとこちらに向き直る。
「おい、次を見に行くぞ」
「え」
まだどこか行くんですか。
師匠は女将にこのあたりの道を尋ねている。
つい、つい、と袖を引かれた。楓が耳元に顔を寄せてくる。
「なに」
「あの人ほんものなの?」
「なにが」
「霊能力者」
まあ確かにここまでは、まったくそれらしい所を見せていない。
「テレビに出てくるのとは違うけど、霊を見ることに関しては凄いよ」
霊感が強いだけの人なら他にもいるだろうが、師匠の本当に凄い所は、その見たこと、体験したことに対する料理の仕方なのだ。
それはある意味、探偵的と言えるかも知れない。つまり興信所の調査員であるこの今のスタイルで正解なのかも知れなかった。
「ふうん。まあいいや。で、付き合ってんの?」
いきなりすぎて吹きそうになった。
「助手だよ」
「それもう聞いた」
「まあいいじゃないか」
ああ。やってしまった。明確に否定しないという、見栄。
軽い罪悪感に襲われていると、二人でひそひそやっているのが気になったのか、和雄が「なになに」と近づいてくる。
「よし、行くぞ」
師匠に服を掴まれる。軽く引きずられながら「どこへ?」と訊くと「この旅館の周辺の調査」
402 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:22:21.36 ID:HrRb/QUY0
ようするに散歩ですか。
という軽口が出そうになったが、クライアントの前なのでさすがに自重した。
「また案内したいですけど、ごめんなさい。これから用事があって」
楓が頭を下げる。高校時代の友だちとクリスマスイブパーティをするらしい。
それを聞いて、僕はようやく今日が十二月二十四日であることを思い出した。
思わず和雄の方を盗み見するが、「いいあなあ」などと余裕ぶっている。しかし内心はどうだか分からない。
「じゃあ、僕もそろそろ帰ります」
旅館の外に出ると、和雄もそう言って敷地の隅にとめてあったバイクに跨った。排気音とともに手を振りながら去っていく姿を見送る。
「あ〜あ、かわいそうに、あいつ」
人ごとのようにそう言う師匠だったが、十二月二十四日という今日は僕らにも平等に訪れていることを分かっているのだろうか。
「日が暮れる前に行くぞ」
そう言って歩き出した。すでに日の光は西の山の端へ隠れつつあった。
それから小一時間かかって周囲を散策しながら枝川沿いに旅館へ来たときの道を逆に辿っていった。寂しい道で、あまり地元の人ともすれ違わなかった。
やがて道路沿いに背の高い金網で覆われた一帯が見えてくる。来たときに見た貯水池だ。周囲はすでに薄暗く、膨大な水量を蓄えた水面は輝きもせず、死んだようにひっそりとしていた。
金網のそばに看板があった。
『亀ヶ淵(かめがぶち)』という名前のこの貯水池は、応仁の乱の後に戦国武将が各地で覇権を競い始めたころ、この地に侵攻してきた高橋永熾(ながおき)が自身の勢力の新しい拠点として今の西川町一帯を封じた時に作ったものだそうだ。
枝川の水量が安定せず石高が伸びなかったこの地に、持参した地金を惜しげもなく投じて土木工事を行ない、巨大な水瓶を提供したのだ。
師匠はその看板の説明文を読み終えて、ぼそりと言った。
「問題の若宮神社は、この武将が開いたのかも知れないな」
「どうしてですか」
403 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:25:22.50 ID:HrRb/QUY0
「若宮って名前のつく神社は、例えば大分の宇佐神宮を本宮とした場合、その御祭神である八幡神こと応神天皇の子、つまり御子神であるところの仁徳天皇を祀った神社のことだ。
あるいは、単に本宮から新たに迎えた御祭神という意味で若宮と呼ぶ場合もある。その場合は八幡神である応神天皇の分霊を祀っている神社ということになる。
いずれにしても、基本的には本宮ありきの神社なわけだ。そして本宮から新たな若宮を勧請してくるのは、国司やその地の豪族などの実力者と相場が決まっている。
戦国時代にあっては、その役割の中心を担ったのが……」
戦国武将というわけか。
高橋永熾が元々の勢力圏で信仰していた神社から、新たな支配地であるここへ、その御子神か分霊を勧請してきたということならば、確かにありそうだ。
「もう少し調べてみたいな」
いずれにしても、その若宮神社に行って宮司と話をしてみる必要があるだろう。時計を見ると、まだ六時だった。さっきその時間を告げる鐘の音が鳴ったばかりだ。訪ねて行けない時間でもない。
その息子である和雄と面識があるので、話も通しやすいだろう。
しかし師匠は少し考えた末、「また、明日にしよう」と言った。
とりあえず、その旅館に出るという霊とやらを見てみるのが先だということか。
「戻って、飯食おうぜ」
踵を返した師匠に、頷いてから後に続いた。
そう。それが気になってしょうがなかったのだ。旅館の夕食ということで、料理を期待しても良いのだろうか。それとも僕らは仕事で来ているのだから、「え? そちらの夕食は用意していませんが」とあっさり言われたらどうしよう。
近くに弁当とかパンを買える店があったかなあ、と思い悩みながら歩いた。
ようやく『とかの』に帰り着くと、玄関のあたりが妙に騒がしかった。見ると二十代半ばくらいの女性が四人、たむろしていた。
ああ、そういえば今日は僕らの他に二組、客がいるって聞いてたな。
「こんばんわ」
師匠は愛想よく挨拶をして旅館の中に入る。
「あ、こんばんわ」
出迎えた番頭の勘介さんに荷物を渡しながら、女性たちもこちらに笑顔を向けた。みんな暖かそうな服装をしている。仲良しOL四人組というところか。
404 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:28:24.18 ID:HrRb/QUY0
それもクリスマスイブに温泉旅館に泊まるってことは、恋人のいない仲間同士ということだろう。
玄関を通り抜け、廊下の手前で師匠にそのことを囁くと、おもむろに腕時計を見て、その針を示しながら口を開いた。
「日没の後だから、『クリスマスイブ』の用法としては正しい」
まだこだわっているのか。
「あ、ちょうど良かった」
仲居姿の広子さんが僕らの前に現れて、手招きしながらフロントの奥へ入っていく。
「電話かかってきてるみたい」
事務所の電話をとっていた女将がこちらに気づいて、電話口に軽くお辞儀をしてから師匠とかわる。
受話器から声が漏れている。大きな声だ。
「お食事、お部屋にお持ちしますので、それまでおくつろぎください」と僕に言って、女将は忙しそうに事務所から出て行った。
師匠はうざったそうにあしらうような口調で話し終え、受話器を置いてから溜め息をついた。
「例の婆さん。この宿の馴染み客で、わたしを女将に紹介したひとだよ」
ああ、頼みもしないのに方ぼうへ師匠のことを宣伝しているという人か。
「万事任せておけば大丈夫だから、失礼のないようにしなさい、って女将に釘刺してくれたんだと。……他に余計なこと言ってないだろうな、あのばあさん」
そう言って苦笑する。
「自分も正月泊まりに行くから、幽霊退治よろしくな、ってさ」
それから部屋に戻ろうとすると、師匠が「ついでに電話するところがあるから、先に戻ってろ」と言う。
調査事務所の所長の小川さんに今日のことを報告でもするのだろうかと思い、あてがわれた二階の部屋に一人で戻った。
足を投げ出してテレビをぼんやり見ながら先に汗を流そうかと考えていると、広子さんがやって来て、隣の部屋を指さしながら言う。
「先、ご飯食べたいって言うから、あっちの部屋で、一緒でいい?」
師匠も部屋に戻ったのか。もちろん従うほかはない。
広子さんもその僕らの間の力関係というか、雰囲気を、すでに理解している様子で、一応確認というポーズを取っているだけのようだった。
その後、師匠の部屋にお邪魔し、テーブルに向かい合っていると「失礼します」と女将が広子さんを伴って入ってきた。
405 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:32:37.03 ID:HrRb/QUY0
そして目の前に、色鮮やかなお膳が並べられる。
紹介してくれたお婆さんの口添えが効いたのか分からないが、期待以上の食事にありつけた。
山菜の天麩羅など山の物が多かったが、普段美味しいものを食べつけない僕ら貧乏学生にはどれも過ぎた料理ばかりで、二人とも何度もご飯をおかわりして給仕してくれた広子さんを呆れさせた。
師匠は最後に茶碗に残ったご飯にお茶を注ぎ、白菜の漬物を乗せてからかき込んだ。そしてようやく人心地がついた、という表情で箸を置く。
さすがに晩酌はなかった。師匠はそれが少し物足りなそうだった。しかしこれからが仕事の本番なのだ。
そこへ頃合を見計らった女将が部屋に戻って来た。
「いかがでしたか」
そう訊かれて、二人とも素直に料理を褒めた。温泉地としてはあまり有名ではないこの土地で、旅館を三代に渡って続けられているのもこうした付加価値があるからかも知れない。
「少し、いいですか」
師匠は改まった口調で女将に問い掛けた。
「はい」
女将は広子さんにお膳を片付けさせながら、着物の裾を綺麗に整えながらテーブルの脇に正座をした。
そんな風にされるとこちらも落ち着かず、僕は思わず座布団の上に正座で座りなおす。師匠は気にしない様子で、あぐらをかいたまま女将に話しかけた。
「若宮神社は、この先の貯水池を作った高橋永熾が勧請した神社ですか」
「ええ。そう聞いております」
高橋家はその後、息子の代で別の戦国武将に攻め滅ぼされたのだそうだ。それ以来、この地は徳川幕府が開かれるまで、何度も支配する武将が変わっていった。
すらすらと喋る女将からのその言葉の端々から、かなりの教養のほどが窺える。
感心しながら聞いていると、師匠は少し考えるそぶりを見せた後、話題を変えた。
「この裏山ですが、もしかして大規模な土砂崩れが起きたことがあるんじゃないですか」
女将はハッとした表情を見せる。
ついさっき、山から戻って来て「期待はずれでした」なんて言っていたくせに、結局訊くのか。
それにこの部屋で仕事の話をすると主客が逆転してしまう、なんて言っていたのに、もうめんどくさくなったのか。
半ば呆れながら師匠と女将の会話に耳を傾ける。
「ええ。私が小さいころですから、もう三十年以上前になるでしょうか。このあたりに記録的な大雨が降ったことがございまして……」
降り止まないどころか、ますます勢いを強くする雨に、子どもながらなにか大変なことが起きているということは分かったのだそうだ。
その日、折からの大雨のために『とかの』に客はいなかったのだそうだが、旅館中をみんながバタバタと落ち着かずに動き回り、夕方ごろには父親と、まだ健在だった祖父とが血相を変えて「裏山を見てくる」と雨具を被って出て行った。
近くの他の家からも大人が何人か雨の中に出てきて、山の方へ向かったようだった。
恐る恐る玄関から外を見ていると、滝のように轟々という音を立てて降ってくる雨の中から「川には近づくなよ」という誰かの声が混ざって聞こえた。
しばらくすると、ふいに地響きのような音が雨空に唸りを上げた。それは耳を塞いでも聞こえてきた。恐ろしい音だった。
住み込みの男性従業員が「崩れたんじゃないか」と叫んで、雨の中に飛び出していった。
父と祖父のことが心配で、気がつくと自分も外に出ていた。バケツをひっくり返したような大粒の雨が絶え間なく上空から落ちてくる。その雨の中を合羽も着ずに走った。視界は悪く、片手で額を覆っても目を開けることが困難だった。
山の方から大人たちの大声が聞こえてきた。「崩れた」「危ない」という言葉が聞こえた。
その中に、父と祖父の声もあって、ホッと胸を撫で下ろした。
安心すると、「見つかったら叱られる」ということに気がつき、「早く戻らないと」と引き返そうとした。
その時、ふいに桜の木のことが頭に浮かんだ。枝川の土手にある桜だ。土手の壁面から斜めに生えていて、増水した時には根元が水に浸かるんじゃないかといつも心配していた。
思わず川の方へ足を向けた。
降りしきる雨の中、目を凝らしても桜の木は見えなかった。このあたりのはずなのに。流されてしまったのだろうか。
土手に近づいて川の方へ目をやると、今までに見たこともないような濁流がうねりを伴って川上から川下へと流れていた。
恐ろしくて足が動かなかった。雨音と川の奔流の音で耳が痛い。
全身を鉛のような雨粒に叩かれながら、猛り狂う川の流れから目を離せないでいると、狭い視界の端に、不思議なものが映った。
407 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:39:53.29 ID:HrRb/QUY0
物凄い速度で流れていく泥水の中に、真っ黒い動物の身体が見えたのだ。その胴体は途方もなく長く、波打っていて、濁流に乗り目の前を通り過ぎようとしていた。
蛇だ。
それも、胴だけで一抱えもある、とてつもない大蛇。その身体が怒り狂うようにうねりながら大雨と濁流の中を流れて行く。
息を飲んでその行方を見守る。遥か彼方へその姿が消え去ってもしばらくその場を動くことができなかった。
「なにしてる、こんなとこで」
怒鳴り声とともに祖父に手を掴まれた。なかば引き摺られながら『とかの』に向かっている間、「おじいちゃん、蛇が、蛇が」と喚いた。
祖父はギョッとした顔をしたが、「変なことを言うんじゃない」と叱りつけた。
『とかの』に戻ると、祖父がここは危ないので小学校へ避難すると宣言し、全員で雨の中を逃げた。
その間中、自分の頭の中には、のたうつ大蛇が川を流されていく姿が何度も繰り返されていた……
語り終えた女将は、我に返ったように慌てて「おかしなことを申しました。子どものころに見た幻でございます」と付け加えた。
師匠は興味津々という顔で、「その後はどうなりました」と尋ねた。
「ええ。幸い、山が崩れたのは川側の方だけでして、結局旅館の方は大丈夫でした。その後、役場が委託した調査会社の方が調べたところによると、今後また万が一土砂崩れがあっても、やはりこの『とかの』の方へは崩れてこないということでしたので、ご安心ください」
ちゃんと、忘れずにフォローもしている。なかなか抜け目ない人だ。悪い噂などどこから広がるか分からないのだから。
「その、大雨の日の土砂崩れの前にも、やっぱり裏山には神社の跡などはなかったんですね」
「ええ。なかったはずです」
「わかりました。ありがとうございます」
師匠はあっさりとそう言うと、女将の祖父のことや先代である父親のことをあれこれと訊いた。
祖父はもちろんだが、父親も母親ももう亡くなっていた。そして入り婿であった女将の夫、つまり楓の父親も十年ほど前に病気でこの世を去ったのだそうだ。
408 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:42:28.81 ID:HrRb/QUY0
師匠はこの戸叶家の事情をおおよそ訊き終えて満足したのか、最後に「では、今夜はわたしと、この助手とで夜中じゅう、交代で番をします」と言った。
他の客が寝静まってから、これまでに神主の霊の目撃が多かった場所を中心に見張るというのだ。
「もしそれまでに出たら、とにかくすぐにわたしに知らせてください」
女将は、「従業員もすべて承知しておりますので、よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
お茶をいれなおしてから女将が部屋を出て行った後で、師匠はニヤリと笑って言った。
「こいつは、カナヘビちゃんだぜ」
カナヘビ?
なぜここでカナヘビが出てくるのか。
その意味を訊いても、はぐらかすように「風呂風呂、風呂に入ろう」と手を叩くだけだった。
◆
「ねえ、あれ彼氏?」
「違うよ」
「うそぉ」
「まじで」
……
そんな黄色い声が頭の向こうから聞こえて来る。
露天風呂だった。
和雄の言うとおり、広々としていてなかなか良い湯だ。そんな所を一人で占拠するのはなんとも言えない良い気分だった。
岩に頭をもたせ掛けて空を見上げていると、ざぁー、と身体を流す音が遠くから微かに聞こえる。頭の先には竹を組み合わせた壁があり、その向こうには女性用の露天風呂があるはずだった。
湯気が夜空に上っていき、澄んだ空気の果てにある星をゆらゆらと隠していく。
寒空の下、顔は冷たいのに、身体だけは温かい。いつもはシャワーばかりでお湯につかるという習慣がない僕だったが、こういうのもたまには良いものだ。
「ねえ、ほんとに彼氏じゃないの」
「ほんとだよ」
409 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:44:48.00 ID:HrRb/QUY0
消極的な見栄を張った僕とは大違いだ。
ズルズルと背中を滑らせ、そのまま頭の先まで湯の中に沈み込んだ。頭の芯まで熱が入り込んでくる。
「彼氏じゃないのに、旅行してんの?」「なんかそっちの方がやらしい感じ」などという声が水を通して聞こえてくる。
師匠はさっそくOL四人組と仲良くなったようだ。師匠は今二十四歳のはずだから、同い年くらいか。
そうだよな。普通なら働いている年齢なのだ。それどころか子どもがいてもおかしくない。
湯の中に沈みながら、一人でそんなことを考えている。
師匠からはあまり、大人の女、という感じを受けない。子どもがそのまま大きくなったようだ。
なんだっけ。生物学上で、こういうのを。ウーパールーパーとかサンショウウオがそうだよな…… 思い出した。ネオテニーだ。幼形成熟、だったっけ。
まあ師匠の場合、あくまでその性格上の話だが。
頭の中でサンショウウオの姿がぐねぐねと変形し、図鑑で見たカナヘビの姿に変わった。
こいつは、カナヘビちゃんだぜ。
湯から顔を出して、師匠の言葉を反芻する。
女将が見たという大蛇はなんだったのだろう。あの枝川にはそういう『主』の言い伝えは特になかったそうだ。では一体?
大雨。土砂崩れ。大蛇。
あの裏山で師匠が見つけた石に刻まれていた不思議な雨冠の漢字となにか関係があるのだろうか。
そしてそれはこの神主の霊が出るという事件と関係があるのだろうか。
真剣に考えを巡らせていると、また女湯の方から嬌声が上がった。
「もうヤったの?」
「やってないよ」
「うそぉ」
「まじで」
動揺した僕は湯の底についていた手を思わず滑らせてしまった。バシャンという音が立つ。
「ねえ、隣で聞いてるんじゃない」竹で編まれた壁の向こうからの声。続いて、キャーキャーという笑い声。
もう出よう。
410 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:48:29.33 ID:HrRb/QUY0
僕はいたたまれなくなって露天風呂から上がる。ドアを開けて大浴場の方へ戻ると、頭の禿げた父親と小学生くらいの息子が身体を洗っていた。もう一組の泊り客の家族だ。
「こんばんわ」と挨拶をして脱衣所へ向かった。
出なかったな。
和雄が神主の霊を見た、という露天風呂だったがそれらしい姿も気配も、なにもなかった。
浴衣に着替えから廊下に出て、「湯」と書かれた暖簾の前に置いてあった藤製の長椅子に腰掛けて、なにをするでもなく、ただ湯あたり寸前にまで火照っていた身体を冷ましていた。
しばらくぼうっとしていると、師匠を含めた女性陣がもう一つの「湯」と書かれた赤い暖簾の下からわらわらと出てきた。
「あ、やっぱりいた」
なにがやっぱりなのだ。
OLたちはあっちに卓球台があったから、みんなでやりませんか、と誘ってくる。
あ、いいな。卓球は久しぶりだ。温泉に来るとどうしてこんなに卓球をやりたくなるのだろう。
その騒々しい一角に、タオル類を満載した台車を押している勘介さんが通りがかった。
じっとりと睨むような目つきで僕らのそばを通り過ぎる。
『観光気分か……!』
そう詰られたような気がした。
「ああ。ええと、わたしたちは遠慮しとくよ。な」
師匠に話を振られて「はい」と返事をする。
「じゃあさっきお願いしたとおり、オバケっぽいのを見たら教えてね」
師匠はOLたちに手を振りながら僕を引っ張っていく。
それから僕らはまた旅館中を視察して回った。中庭や裏の駐車場を含めて見て回ったのだが、昼間と同じで特に異変は見当たらなかった。
仕方なく一度師匠の部屋に戻り、なぜか備え付けてあった将棋盤を見つけたので二人でパチリパチリと指しながら、今日あったことを確認する。
「なんなんでしょうねえ、神主の幽霊って」
「さあなあ。見てみないことにはな」
「あの、裏山の石に書かれていたっていう漢字となにか関係があるんですか」
「さあなあ」
師匠は気のないような素振りで情報を秘匿していた。明らかになにか掴んでいるような感じなのだが、いつものようにもったいぶっている。
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