古い家(前編)
534 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ New! 2008/06/29(日) 00:01:09 ID:quV+YcYD0
聞いた話である。
「面白い話を仕入れたよ」
師匠は声を顰めてそう言った。
僕のオカルト道の師匠だ。面白い話、などというものは額面どおり受け取ってはな
らない。
「県境の町に、古い商家の跡があってね。廃墟同然だけど、まだ建物は残ってるん
だ。誰が所有してるのかわからないけど、取り壊しもせずに放置されてる。誰も
住んでいないはずのその家から夜中、この世のものとは思えない呻き声が聞こえ
るっていう噂が立ってね。怖がって地元の人は誰も近寄らない。どう、興味ある?」
大学2回生の夏だった。
興味があるのないのというハナシではない。ただその時の僕は、(ああ、今回は遠
出か)と思っただけだ。
その夏は、1年前の夏と同様にいやそれ以上に、怖いもの、恐ろしいものにむやみ
やたらと近づく毎日だった。
その日常はなだらかに下る斜面の様に狂っていた。普通の人には触れられない奇怪
な世界を垣間見て、恐ろしい思いをするたびに、目に見えない鍵を渡されたような
気がした。その鍵は一体どんな扉を開けるものなのかも分からない。使うべき時も
分からないまま、鍵だけが溜まっていった。僕はそれを持て余して、ひたすら街を、
山を、森を、道を、そして人の作った暗闇をうろついた。その日々は頭のどこか大
事な部分を麻痺させて、正常と異常の境をあいまいにする。
どこか現実感のない、まるで水槽の中にいるような夏だった。
ゴトゴトと軽四の助手席で揺られ、僕は窓の向こうの景色を見ていた。
師匠の家を夕方に出発したのであるが、今はすっかり日が暮れ、そそり立つ山々が
黒い巨人のような影となって不気味な連なりを見せている。
535 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ New! 2008/06/29(日) 00:08:52 ID:9x5Yw4U+0
最後にコンビニを見てからどれくらいだろうか。
寂れた田舎の道は曲がりくねり、山あいの畑の向こう側に時々民家の明かりが見え
るだけで、あとは思い出したように現れる心細い街灯の光ばかりだ。
カーステレオはさっきから稲川順二の怪談話ばかりを囁いている。時々師匠がクス
リと笑う。僕はその横顔を見る。
ハンドルを握ったまま、ふいに師匠がこちらを向いて言った。
「こないだ、くだんを見たよ」
え? と聞き返したが彼女は繰り返してくれなかった。代わりにぷいと視線を逸ら
して、「やっぱ鈍感なやつには教えない」と言った。
なんだか釈然としない思いだけが残ったが、師匠の言動は解釈がつくものばかりで
はない。
気がつくと道が広くなり、山が少し遠くへ退いて見える。
道の傍の防災柱が目に入ると、時を置かずに農協の看板が現れた。ポツリポツリと
民家や、小さな公共施設が見え始める。
「この辺に停めよう」と言って、師匠は土建会社の資材置き場のようなスペースに
車を乗り入れて、エンジンを切った。
人気はまったくない。師匠はダッシュボードから懐中電灯を取り出して、手元を照
らす。手描きの地図のようだ。
「こっち」
バタンとドアを閉めながら師匠は歩き出した。僕は後ろをついていく。
死んだように静まりかえる古い田舎町の中を進むあいだ、動くものの影すら見なか
った。懐中電灯に照らし出された道には時々なにかの標語が書かれた看板が見え、
どこか遠くでギャアギャアと鳴く鳥の声ばかりが間を持たせるように聞こえて来る。
腕時計を見ると、まだ深夜12時にもなっていない。ここでは僕らが知るそれより
も夜が長いのだ、と感じた。
536 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ New! 2008/06/29(日) 00:13:22 ID:9x5Yw4U+0
こうも寂しいと逆に人とすれ違うのが怖いな、と思って内心ゾクゾクしていたが、
誰とも会わなかった。
かすかに聞こえてきた蛙の鳴き声が大きくなり、やがて用水路のそばの畦道に行き
当たった。そこを道なりに進んでいくと黄色い街灯がポツリと立っていて、その向
こうに暗い建物の影が見えた。
「あれかな」
師匠が懐中電灯を向ける。近づくにつれ、その打ち捨てられた家屋の様子が分かっ
てくる。一体どれほど昔からここに建っているのか。背後の雑木林もまったく手入
れがされた様子はなく、黒々とした巨大な手のようにその家の敷地へ枝を伸ばして
いる。周囲にはかつて家が建っていたらしい土台や、ボロボロで屋根もない小屋な
どが散見できたが、かつて商家があった一角の面影はまったくない。
この世のものとは思えない呻き声が聞こえる、という噂を思い出し自然耳をそばだ
てたが、聞こえるのは蛙の鳴き声と風の音だけだった。
段々と心細くなっていた僕は、「何もないみたいだし、もう帰りましょう」と師匠
に提案しようとしたが、彼女が自分の目の下のあたりを指で掻いているのを見て口
を閉ざした。
そこには古い傷があり、興奮した時には薄っすらと皮膚上に浮かび上がるとともに
チクチクと痛むのだという。僕にとって彼女がそれを触る時は、あるべき、いや、
そうあるはずだと他愛なく僕らが思い込んでいるこの世界の構造が、捻じ曲がる時
なのだ。
ガサガサと、生い茂る雑草を掻き分けて師匠はその家に近づいていく。
やがて醤油の『醤』という字のような意匠がかすかに残る家の正面の板張りを懐中
電灯が照らす。かつては醤油問屋だったのかも知れない。
師匠がその板張りをガタガタと揺らすが開きそうになかった。明かりを上に向ける
と、2階部分の正面の窓が照らし出される。格子戸がはめ込まれているそこは、下
に足場もなく入り込めそうな感じではない。
と――
537 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ New! 2008/06/29(日) 00:15:33 ID:9x5Yw4U+0
その格子のわずかな隙間から、中で何かが動いたような空気の流れが見えた気がし
た。目を擦るが、すぐに2階はもとの闇に包まれる。師匠が明かりを下げて「どこ
から入れるかな」と呟きながら裏手へ回ろうとしていた。
なんだろう。すごく嫌な感じがした。
もう一度耳を澄ます。
やっぱり蛙と風の音だけだ。
回り込むと土塀がぐるりと囲んでいたが、人が通れそうな潜り戸が見つかった。半
分崩れた木戸を押すと、中は丈の長い雑草が群生する空間になっている。
「裏庭か」
師匠がその中へ足を踏み込んでいく。
周辺を懐中電灯で照らすと、倒れた灯篭の火袋や埋められた池の跡、倒壊した土蔵
や便所と思しき小屋の痕跡などがひんやりと浮かび上がってくる。
雑草を掻き分けて家屋の裏手の方へ足を向けると、いたるところが剥げかけている
漆喰の壁に戸板が厳重に張られた箇所があった。
「裏口か。でも開かないかな、これは」
師匠がゴンゴンと板を叩く。パラパラと木屑が落ちる音がする。
「こっち、縁側がありますよ」
うっすらとした月の光にかすかに濡れて見える縁側が夜陰に佇んでいる。しかし、
その向こうにはやはり雨戸らしき木の板が一面を覆っている。
ゴトゴトと二人して揺すってみるが、中からつっかえ棒でもしているのだろう、ま
ったく開く気配はなかった。
舌打ちをしながら師匠はそこから離れ、裏庭の端まで行くと土塀と家の外壁の隙間
に身体を滑り込ませて、奥へと侵入していった。
バキバキとなにかを踏み壊すような嫌な音だけが聞こえてくる。残された僕の辺り
に闇が降りて来る。少し心細くなる。
やがて悪態をつきながら師匠がその隙間から戻って来た。
「ぺっ、ぺっ。なんだよこれ。全然入れるトコないじゃん」
そうですね。
538 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ New! 2008/06/29(日) 00:19:00 ID:9x5Yw4U+0
そんな言葉を吐きながら、僕は2階建てのその家屋を見上げた。
どれほどの時間、この構造物はここに建っているのだろう。明治時代から? 江戸
時代から? 今、人工の無機質な光に照らされる薄汚れた白壁は、滅びた家の物悲
しさを纏っているように見えた。
リー、リー、と虫が鳴く。
師匠が「金属バット、持ってくればよかったな」と言った。
嫌な予感がした僕に、間髪要れず容赦のない言葉が降って来る。
「体当たり」
え? と聞き返すが、彼女はもう一度それを繰り返しながら懐中電灯で裏口の戸を
示す。
なにか色々と、言いたいことがあった気がしたが、すべて僕の中で解決がついてし
まい、うな垂れながらも諾々と従うこととした。
最初は軽く肩からぶつかってみたが、ズシンという衝撃が身体の芯に走っただけで、
戸は歪みさえしなかった。
「中途半端は余計痛いだけだぞ」という師匠の無責任な発言を背に受けて、僕は覚
悟を決めると、今度は十分に勢いをつけて全身でぶつかっていった。
バキッ、という何かが折れる音とともに戸が内側に破れ、僕は勢いあまって中に転
がり込む。
その瞬間にカビ臭い匂いが鼻腔に入り込んできて頭がクラクラした。
戸は砕けたというよりは、内鍵の代わりとなる差し板が折れただけのようだ。ギイ
ギイという音を立てながら反動で揺れている。
僕を引き起こし、師匠は明かりで家の中を照らした。
足元は土間だ。流し台のようなところに甕がいくつか並んでいる。木製の椅子が積
みあげられた一角に、竈の跡らしきものが見える。そして足の踏み場もないほど散
乱した薪の束。
「おまえ、こういう家詳しいんだろう」
師匠の言葉にかぶりを振る。専門は仏教美術だ。古い商家など守備範囲ではない。
「でもたしかこういうの、通りにわ、っていうんですよ。それでこっちが座敷で」
と、僕は骨だらけになった障子を指差し、次いで入ってきた裏口と逆の方向の奥を
指して、
「あっちが店の間ですね」
と言った。
「ほう」と言いながら師匠は障子を開け放ち、埃が積もった畳敷きの座敷に足を踏
み入れた。もちろん土足だ。
調度品の類はまったくない。ガランとした部屋だった。ただ腐った畳が嫌な匂いと
埃を舞い立たせているだけだった。
「これ以上進むと、ズボッといきそう」
師匠はその場で壁を照らす。土気色の壁には板張りの上座の上部に掛け軸が掛かっ
ていたような痕跡があったが、今は壁土が剥がれて無残な有様だった。
上を見ると、天井の隅に大きな蜘蛛の巣があった。蛾が何匹もかかっている。
「うそっ」
と師匠が息を呑む。
信じられないくらい巨大な蜘蛛が光をよけて梁に身を隠す瞬間が確かに見えた。
気持ち悪い。
人の住まなくなった家屋の中で、虫たちの営みは変わらず続いているのだ。
続きの隣の部屋も似たような様子だった。
次に僕と師匠は店の間に恐る恐る入り込んだ。
「蜘蛛、いる?」
急に腰が引けた師匠が、暗闇に僕を押し込もうとする。
押した押さないの問答の末、二人して入り口から中を覗き込むと、背の低い陳列台
のようなものがいくつかあるだけで、ほとんどなにも残っていなかった。
540 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ New! 2008/06/29(日) 00:25:08 ID:9x5Yw4U+0
ただ僕と同じように、そこかしこに光から逃げるような影があるような気がしたの
か、師匠はむやみたらと明かりを四方八方に向けては「うぅ」と唸っている。
店の正面玄関にあたる戸の裏側(『醤』の字が書かれていた戸か?)には、やはり
頑丈そうなつっかえ棒が何重にもしてあるのが見えた。
こっちに全力で体当たりしてたら、と思うと僕はぞっとした。
その後も、二人で家の中の小部屋などを探索したが、なにも目立った成果はなかっ
た。
つまり、『この世のものとは思えない呻き声が聞こえる』という噂にまつわるよう
な何事も起きなかったし、何も見つからなかった。
「人の気配はまったくないですね」
僕の囁きに師匠は、「う〜ん」と首を捻る。
なにかに合点がいかない様子だ。
確かにこんなところまで遠征して来て、不法侵入までしてなにもなかったでは納得
がいかないのだろう。
そう思っていると、師匠が首を捻ったままポツリと呟いた。
「2階へはどうやって上るんだ」
ゾクッとした。
2階?
外から見えていた2階の格子戸。あの奥には部屋があるはずだ。
あそこへはどうやって上る?
この家には階段がないじゃないか。
見落としがあったのかも知れない。そう思ってもう一度家の中をぐるりと回る。
しかし、階段はおろか、その跡さえ見つからなかった。
「こういう造りの家だと、階段はどこにあるのが普通なんだ」
師匠の言葉に答える。
「たいていは店の間の端です。まあ台所の横にあったりもしますが」
「ないじゃないか。どこにも」
541 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ New! 2008/06/29(日) 00:28:10 ID:9x5Yw4U+0
おかしい。
縄梯子で出入りでもしているのかと思って天井を観察したが、そんな痕跡は見当た
らなかった。
ひょっとして、家の外側から架け梯子などで出入りしていたのではないか。そう思
いはじめた頃、僕の耳は魂の芯が冷えるようなものを捉えた。
うううううう
…………
そんな、呻き声がどこからともなく聞こえた気がした。
思わず身を硬くする。
気のせいじゃない。その証拠が僕の目の前にある。
師匠が口唇に人差し指をあてて、険しい表情で姿勢を低くしているからだ。
静かに。
そう、僕に目で指示をしてから師匠はゆっくりとすり足で進み始めた。
嫌な汗がこめかみを伝う。
僕らがいた店の間から通りにわに入り、懐中電灯の丸い光がつくる埃の道を息を殺
して進む。急に暗闇が深くなった気がした。室内には、単一の光源では届かない闇
があるのだと、今更ながら思い知る。一瞬目を離した隙に、その闇の中へなにかが
身を隠したような想像が沸き起こる。
うううううう
…………
微かな呻き声に耳をそばだてながら、師匠が足を止めた。
最初に上った座敷の前だ。
ゆっくりと畳に足を乗せ、師匠は座敷に上り込んだ。
たわんだ畳に引っ張られるように骨だけの障子がカタリと音を立てた。
「おい」
という押し殺した声に引っ張り上げられて、僕も座敷に上る。
542 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ New! 2008/06/29(日) 00:31:15 ID:9x5Yw4U+0
師匠は部屋の隅の、押入れの跡に光を向ける。
取り外されたのか、襖もない。ただ部屋にぽっかりと開いた穴のような空間だった。
まだ呻き声は続いている。
しかも明らかに近くなったようだ。
師匠が押入れの床をモゾモゾと撫で回していたかと思うと、ズズズ……という木が
擦れるような音とともに、目に見えない空気の流れが顔に押し寄せてきた。
師匠が僕の方を振り返る。
そして押入れの床を明かりで照らす。光はある一点で吸い込まれるように消えている。
そこには隠し板の蓋を外された穴があった。大きさは人が優に入り込めるほどのもの。
師匠の身振りに近くへ寄った僕は、その穴の中を恐る恐る覗き込んだ。
そこには、地下へ伸びる木製の階段があった。
空気が吹き上がってくる。
うううううう
…………
空洞を抜ける風の音。
これが唸り声の正体か。
ごくりと唾を飲み込む僕に、師匠が囁く。
目を爛々と輝かせて、「さあ、行こうか」と。
僕は思い出していた。
父方の祖父の家にある古い土蔵。その奥に地下へ伸びる隠された階段がある。その
下には秘密の部屋があり、巨大な壷が置いてあった。子どものころ、父に連れられ
てその階段を降りる時の、あの、気づかないほどゆるやかに少しずつ自分が死んで
いくような感覚。いたずらを叱られた僕は、父にその壷の中へ押し込められるのだ。
543 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ New! 2008/06/29(日) 00:36:59 ID:9x5Yw4U+0
壷はあんまり静かに立っているので座っているように見える、と言ったのは誰だっ
たか…… どちらにしても黄色い照明が照らす地の底で一人きり壷に呑み込まれた
僕は身を丸め、重い石でそらに蓋をされるのを見ていることしかできない。そうし
て一切の明かりのない世界に閉じ込められた僕は、遠ざかっていく足音を聞く。そ
れからやがて、自分のいる場所が地の底とは思えなくなってくる。もっと下が、あ
るような気がしてくるのだ。
「どうした」
と呼ばれ、我に返る。
師匠が懐中電灯を下に向けながら、ソロソロと足を階段に掛けていく。僕もそれに
続く。
ギイ、ギイ、と古い木が軋む音。2階から1階に降りる階段とは違う。たとえ外が
見えない建物の中でも、地中へ入っていく階段は確かにそれと分かる。皮膚感覚で。
あるいは臓器で。
階段は急だ。1段1段が物凄く高く、また足を置く踏み面も狭い。下を見ると、ほ
とんど垂直に降りているような錯覚さえ抱く。
足を滑らせたら、大変だ。
そう思って慎重に一歩一歩進めていく。
すぐに壁に突き当たる。右側に開いた空間に回りこむとまた下に伸びる階段が続い
ている。ただの折り返しだ。
「地下で醤油でも寝かせてるのかな」
師匠が呟いたが、そうは思えない。醤油が湿気の多い地下で保存するのに適したも
のとは思えないし、なにより入り口が押入れに隠されていたというのが不穏当だ。
地下から吹き上がってくる微かな風が、頬に触れる。
545 :古い家 ◆oJUBn2VTGE: ウニ 支援plz 2008/06/29(日) 01:02:27 ID:9x5Yw4U+0
黴臭い匂いが鼻につく。
すぐにまた壁に突き当たった。師匠がゆっくりと明かりを右側へ向けていく。
「おい」
という声。
僕もそこに並ぶと、下に伸びる階段が目に入る。
まだ下があるぞ。と師匠が呟く。
懐中電灯に照らされる下には、また同じような漆喰の壁が光を反射している。そし
てまったく同じように右側の空間が光を吸い込んでいる。
「どこまで地下があるんだ」
僕らはその階段を降りていった。ギイギイという木の音と、風の音。薄汚れた漆喰
の壁と、またくるりと折り返されて続く道。
2回。3回。4回。5回。6回。
折り返しの数を数えていた僕は、頭の中に虫が飛ぶような奇妙な雑音が入ってだん
だんと次の数字が分からなくなる。
7回。8回。9回。次は10回だ。10回。10回だ。ああ。また階段が。これで
11回だから次で。いや、今ので10回じゃなかったか。次で……
先へ進む師匠が、急に足を止めた。
天井に懐中電灯を向ける。
「煤だ」
天井と言っても、それは低く斜めになって下へ伸びる木製の天板。僕らが降りてき
た階段の底板が、その下の階の天板になっているのだろう。その天井一面が、薄っ
すらと黒くくすんで見える。
「気づかなかったけど、足元も煤でいっぱいだ」
頭の中に、蝋燭を持ってこの階段を降りる人間のシルエットが浮かんだ。いったい
どれほどの長い時間、この地下への階段が使われていたのか。
師匠が身体を屈めて踏み面を凝視する。
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