鋏
大学3回生のころ、俺はダメ学生街道をひたすら突き進んでいた。
2回生からすでに大学の講義に出なくなりつつあったのだが、3年目に入り、まったく大学に足を踏み入れなくなった。
なにせその春、同じバイトをしていた角南さんという同級生にバイト先にて「履修届けの締め切り昨日までだけど、出した?」と恐る恐る聞かれて、その年の留年を早くも知ったというのだから、親不孝にも程があるというものだ。
では大学に行かずになにをしていたかというと、パチンコ、麻雀、競馬といったギャンブルに明け暮れては生活費に困窮し、食べるために平日休日問わずバイトをするという、情けない生活を送っていたのだった。
大学のサークルには顔を出していたが、一番仲の良かった先輩が卒業してしまい、自然に足が遠のいていった。
その先輩は大学院を卒業して、大学図書館の司書におさまっていた。
この人が俺に道を踏み外させた張本人と言っても過言ないのだが、まさかこんなにまともに就職してしまうとは思わなかった。
俺が大学に入ってからの2年間、あれだけ一緒に遊び回っていたのに、片方が学生でなくなってしまうと急に壁が出来たように感じられて、自然と距離を置くようになった。
職場の仲間や、ギャンブル仲間・バイト仲間という、それぞれの新しい世界を築いていく中で、オカルト好きという子供じみた共通項でかろうじてつながっているような関係だ。
思い返すとそのころの彼は、つきあっていた彼女も学部を卒業し県外に就職してしまっていたせいか、妙に寂しげに見えたものだった。
梅雨が明けたころだっただろうか。
以前よく顔を出していたネット上のオカルトフォーラムの仲間からオフ会のお誘いがあった。
ここも中心メンバーが二人抜けてからはまるで代替わりしたように新しい人ばかりになり少し居辛さを感じて、あまり関わらなくなっていた。
午後8時過ぎ。集合場所は市内のファミレスだったが、俺は妙に緊張して店内に入っていった。
「やぁ」
という声がした方に、昔からの顔なじみのみかっちさんという女性を見つけ、少しほっとする。
同じ顔ぶれで何度も重ねたオフ会のような気だるい雰囲気はなく、新しい人の多い、なんというかギラギラした空間があった。
オカルト系のオフ会なんだから、オカルトの話をしないといけない、という強迫観念めいた空気に、上滑りするようなトークが絡んで、俺には酷く疲れる場所になってしまっていた。
その会話の中で、一際目立っている女性がいた。
積極的に話に加わっているわけではなかったが、周囲の男性陣がやたらと話しかけている。
その原因は明らかで、彼女がゴシック風の黒い服を着こなした美少女と言っていい容姿をしていたからに他ならない。
俺にしても恋人がいなかった昔は、なにか起こらないかという、そういう下心を持ってオフ会に参加したこともある。
しかしいま、端から冷静にそういう光景を目にしていると、ひどく間が抜けて見える。
その少女はそういう手合いに慣れているのか、淡々とあしらっていた。
しかし、かくいう俺もその容姿に別の意味で気が惹かれるものがあった。
どうも見覚えがある気がするのである。
すでに飲みほしたコーラのコップを無意識に口に運びながらチラチラと少女の方を見ていたのだが、一瞬視線が合ってしまい、すぐに逸らしはしたものの気まずさに「トイレ、トイレ」と我ながら情けない独り言をいいながら席を立った。
とりあえず男子トイレで用をたして出てくると、驚いたことにさっきの少女が正面で待っていた。
「ちょっといい?」
という言葉に戸惑いながらも「え? なにが」と返したが、その聞き覚えのある声にようやく記憶が呼び覚まされた。
「音響とかいったっけ」
2年くらい前に、若い子ばかりが集まったオカルトフォーラムのオフ会で俺に「黒い手」という恐ろしいものを押し付けてきた少女だ。
「今のハンドルはキョーコ」
人差し指を空中で躍らせながらそう言う。
響子。
確かにスレッドに参加していたと思しき連中から、さっきそう呼ばれていた気がする。しかし俺にとってその響きは、なんだか不吉な予感のする音だった。
「てことは本名が音ナントカ響子なわけか。音田とか音無とか」
余計な詮索だったらしい。不機嫌そうな眉の形に、俺は思わず口を閉ざした。
「ちょっと困ったことがあって……助けて欲しいんだけど」
「は? 俺が?」
音響(たとえ頭の中でもキョーコという単語を出したくない気分だった)は、オフ会の集団のいる席の方へ顔を向けながらバカにしたような口調で言った。
「あんな連中、てんでレベルが低くて」
それはまあ、そうだろうけれど。
同意しつつも、ではなぜ俺に? という疑問がわいた。
すると彼女は「黒い手はホンモノだった」と言った。
そして、「アレから逃げ切ったらしいと聞いて、ずっと気になっていた」と言うのだ。
俺は思わず「いやあれは俺の師匠に助けてもらっただけ」とバラしそうになったが、恥ずべきことに実際に口に出したのは「まあ、あれくらい」という言葉だった。
その虚勢は、彼女がやはりかわらしい容姿をしていたことに起因していることは間違いが無いところだ。
「出て話さない?」
と言うので、頷く。
さっきから、オフ会の連中の視線を肌にザラザラ感じ始めていたのだ。トイレ前で話し込んでいるツーショットをこれ以上さらしておく気にはなれない。
男どもの敵意に満ちた視線をかい潜って、レジで清算をする。音響をちらりと見ると、俺に払わせる気満々のようだったが、無視して自分の分だけ払った。
みかっちさんの意味のわからないサムアップに見送られて店を出ると、いきなり行き先に困った。
近くに公園があるが、なんだかいやらしい感じだ。
「居酒屋とかでもいいか」と聞くと、音響は首をヨコに振り、
「未成年」
と言った。
18、19は成人擬制だと無責任なことを俺が口にすると、驚いたことに彼女は自分を指差して、
「16」
と言うのである。
俺は思わず逆算する。
「あの時は中3、今は高2」と先回りして答えてくれた。
黒い手は学校の先輩にもらったと言ってなかったっけ、と思うやいなや、また先回りされた。
「中高一貫」
ずいぶんカンのいいやつだと思いながら、近くのコーヒーショップに入った。
俺はオレンジジュースを、音響はパインジュースを注文して横並びの席に着くと、ひと時のあいだ沈黙が降りてガラス越しに見える夜の街に暫し目を向けていた。
やがて紙が裁たれるようなかすかな音が聞こえた気がして、店内に視線を移す。
すると音響が前を向いたまま手元の紙で出来たコースターをまるで無意識のように裂いている。
俺の不可解な視線に気がついてか、彼女は手を止めて切れ端のひとつを指で弾いて見せる。
「学校の近くの山に、鋏様ってカミサマがいてね。藪の中に隠れてて、知ってな きゃ絶対見つかんないようなトコなんだけど。見た目は普通の古いお地蔵様で、同じようなのが3つ横に並んでる。でもその中のひとつが鋏様。どれが鋏様か は夜に1人で行かないとわからない」
スラスラと喋っているようで、その声には緊張感が潜んでいる。
俺は少し彼女を止めて、「なに? それは学校で流行ってる何かなの」と問うと、「そう」という答えが返ってきた。
「その鋏様に、自分が普段使ってるハサミを供えて、名前を3回唱える。すると近いうちにその名前を唱えられたコが髪を切ることになる」
おまじないの類か。
女子高生らしいといえば女子高生らしい。
「その髪を切るってのは、やっぱり失恋の暗喩?」
「そう。ようするに自分の好きな男子にモーションかけてる女を振られるように仕向ける呪い。すでに出来上がってるカップルにも効く」
そう言いながら自分の前髪を人差し指と中指で挟む真似をする。
陰湿だ。
思ったままを口にすると、黒魔術サークルのオフ会に来てる男には言われたくないと冷静に逆襲された。
「で、その鋏様のせいでなにか困ったことが起こったわけだ?」
音響はパインジュースにようやく口をつけ、少し考え込むそぶりを見せた。その横顔には、年齢相応の戸惑いと冷たく大人びた表情が入り混じっている。
「うちのクラスで何人かそんなコトをしてるって話を聞いて、試してみた」
「自分のハサミで?」
「赤いやつ。小学校から使ってる。夜中にひとりで山にあがって、草を掻き分けてるとお地蔵さんの頭が見えて、それから目をつぶって鋏様を探した」
「目を閉じないと見つからない?」
「開けてると、わからない。全部同じに見える」
「真ん中とか、右端とか、先におまじないしてる子に聞けないのか」
「聞けない」
「秘密を教えたら呪いが効かなくなるとか?」
「そう」
「目を閉じてどうやって探す?」
「手探りで、触る」
「触って分かるもんなの?」
「髪の毛が生えてる」
音響がその言葉を発した途端、再び紙の繊維が裁断される音が俺の耳に届いた。
ぞくりとして身を起こす。
いつのまにか黒い長袖の裾から細い指が伸びて、俺のコースターを静かに引き裂いている。
いつ、グラスを持ち上げられたのかも分からなかった。
恐る恐る、「今、自分がしてることがわかってる?」と聞くと、「わかってる」と少し苛立ったような声が返ってきた。
俺はあえてそれ以上追及せず、代わりに「髪の毛って、苔かなにか?」と問いかけた。
音響はそれには答えず、「シッ。ちょっと待って」と動きを止める。
溜息をついてオレンジジュースに手を伸ばしかけた時、なにか嫌な感じのする空気の塊が背中のすぐ後ろを通り過ぎたような気がした。未分化の、まだ気配にもなっていないような濃密な空気が。
周囲には、明るい店内で夜更かしをしている若者たちの声が何ごともなく飛び交っている。
その只中で身を固まらせている俺は、同じように表情を強張らせている隣の少女に、言葉にし難い仲間意識のようなものを感じていた。
嫌な感じが去ったあと、やがて深く息を吐き彼女は「とにかく」と言った。
「私は赤いハサミを鋏様に供えて、名前を3べん唱えた」
目を伏せたまま、長い睫がかすかに震えている。
「誰の」
聞き様によっては下世話な問いだったかも知れないが、他意は無く反射的にそう聞いたのだった。
「私の」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の理性的な部分が首をかしげーー 首をかしげたまま、目に見えない別の世界に通じているドアがわずかに開くような、どこか懐かしい感覚に襲われた気がした。
「なぜ」
「だって、何が起こるのか、知りたかったから」
ああ。
彼女もまた、暗い淵に立っている。
そう思った。
「で、何が起こった」
俺の言葉に、消え入りそうな声が帰ってきた。
ハサミの音が聞こえる……
「ちょっと待った。ハサミってのは、失恋で髪を切る羽目になるっていう比喩じゃないのか」
「わからない」
彼女は頭を振った。
「だって、いま好きな男なんていないし。失恋しようがないじゃない」
その言葉が真実なのか判断がつかなかったが、俺は続けて問いかけた。
「そのクラスの仲間に名前を唱えられた女の中で、実際に髪を切った、もしくは《切られた》やつはいるか」
「知らない。ホントに振られたコがいるって話は聞いたけど、髪の毛切ったかどうかまでは分からない」
「その、鋏様の所に置いてきたハサミはどうした」
「……ほんとは見にいっちゃいけないってことになってるんだけど、おとといもう一度行ってみたら……」
無くなってた。
音響は抑揚の薄い声を顰めると、「どうしたらいいと思う?」と続け、顔を上げた。
「その前にもう少し教えて欲しい。ハサミは一個も無かった? 自分のじゃないやつも?」
頷くのを見て、腑に落ちない気持ちになる。
「おまじないの儀式としては、ハサミは供えっぱなしで取りに戻っちゃいけないってことじゃないのか?だったら、どうして前の人が置いたはずのハサミが無いんだ」
願いが叶ったら取りに戻るという話になっているのかと聞いても、違うという。
誰かが地蔵の手入れをしてるような様子はあったか、と聞いたが、完全に打ち捨てられているような場所で、雑草はボウボウ、花の一つも飾られていない、人から忘れ去られているような状態だというのだ。
何かおかしい。
なにより、今さっき感じた嫌な空気の流れが、事態の不可解さを強めている。
「なあ、その鋏様っていうおまじまいは、昔からあるのかな。先輩から語り継がれた噂とか」
「わからない。たぶんそうじゃないかな」
「だったら、噂が伝わる途中でその内容がズレて来てるってことはありうるね。元は少し違うおまじないだったのかも知れない。例えば」
言うまいか迷って、やっぱり言った。
「ハサミを供えて、死んで欲しい子の名前を3回唱えれば……」
ガタンと丸い椅子が鳴り、頬に熱い感触が走った。
「あ」
と言って、音響は立ったまま自分の右手を見つめる。
平手だった。
「ごめんなさい」
そう言ってうつむく姿を見てしまうと、頬の痛みなどもはやどうでもよく、怯えている少女をわざわざ怖がらせるようなことを言った自分の大人気なさに腹立ちを覚えるのだった。
「わかった。なんとかする」
安請け合いとは思わなかった。司書をしているオカルト好きの先輩に泣きつく前に、自分の力でなんとかできるんじゃないかという算段がすでに頭の中に出来上がりつつあったのだ。
「とりあえず、その鋏様の場所を教えてくれ」
頷くと、音響はバッグから可愛らしいデザインのノートを取り出して、地図を描き始めた。
案内する気はないようだった。得体の知れないものに怯えている今は、それも仕方がないのかも知れない。
山への上り口までは簡単だが、地蔵のある場所までが分かりにくいはずだった。
ところが、途中の目立つ木のいくつかに印がしてあるのだという。
誰がつけたのかは分からないそうだが、過去から現在において秘密を共有している女子生徒たちのいずれかなのだろう。
「でもあんまり期待すんなよ」
音響は神妙に頷いた。
「でもどうして俺なんだ」
「さっき言った」
「2年も前のことを今更思い出したのか」
「……」
彼女はペンを止め、それを指の上でくるくると器用に回す。
「あのくだらないサークルにひとり、ホンモノがいるって聞いてた。倉野木っていうのが、あなたじゃないの」
俺は思わず肩を揺すって笑った。
人違いだ、と言うと不審げに首をかしげていたが、まあいいわとペンを握りなおした。
地図が出来上がると彼女はノートのページを破り取り、俺に差し出した。
右上に、小さく携帯電話の番号が書かれている。
「助けてくれたら、メチャ可愛い友だちを紹介してあげる」
生意気なことを言うので、「お前でも十分カワイイぞ」とうそぶいて反応を見たが、憎らしいことに平然としている。
「じゃあ」と言って席を立つ彼女へ、とっさに声を掛けた。
「3つの地蔵のうち、どれが鋏様なんだ」
立ち止まって半身でこちらをじっと見ている。
「いいだろう?秘密を教えておまじないの効果が消えたって。むしろそれで解決じゃないか」
迷うような素振りを一瞬見せたあと、音響は囁くような声でこう言った。
「みぎはし」
そして向き直ると逃げるような早足で店の自動ドアから出て行った。
暗闇に溶けていくように消えたその姿をしばらく目で追っていたが、やがてテーブルの上のふたつのグラスと破られたコースターの残骸に視線が落ちる。
その欠片を手に取って、なんとはなしに眺めていると不思議なことに気がついた。
指で裂かれた白いコースターは、その裂け目に紙の繊維がほつれたような跡が残っている。
ところがその破片のうち、いくつかの断片に綺麗に切り取られたような痕跡が見つかった。
まるで鋭利な刃物で裁断されたような跡が。
さっきのコースターを裂いた、まるで夢遊病のような彼女の行動が、これを隠すためだったかのような気がしてくる。
渡されたノートのページを光にかざすと、彼女の描いた赤いハサミのイラストが、やけに禍々しく見えた。
二日後、俺は懐中電灯を片手に真夜中の山中を歩いていた。
バイトも休みだったので昼間のうちに下見をするつもりだったのだが、暇つぶしのつもりで入ったパチンコ屋で高設定のパチスロ台に座ってしまったらしく止めるに止められなくなり、まあいいやなんとかなるだろうと、これまで犯してきた学生としての過ちから全く何も学んでいないような頭の悪い判断をして、夜に至ってしまっていたのだ。
もう出始めた蚊にイライラしながらも、ポケットに忍ばせたノートの切れ端の地図を何度も確認しつつソロソロと歩を進めた。
街から少し離れただけなのに、まるで別世界のような気味の悪さだ。
すでに人の世界ではない。
ほんとすいません、と一体何にあやまっているのか自分でも分からないまま頭の中で繰り返している。
ガサガサと草むらが音を立てるたび、うそだろと思い、山鳩の泣き声がどこからともなく響くとまるで自分が通ることへの合図のような被害妄想に駆られて、たのむから見逃してくれと思うのだった。
まったく、格好をつける必要がどこにあったのだろうか。
自分のバカさ加減にうんざりする。
懐中電灯の白い光が大きな木の中腹に刻み付けられた矢印を照らし出し、確実に目的地に近づいていることが分かる。
また山鳩の声がホウホウと聞こえ、同時にかすかな羽ばたきを耳にした。
湿気を含んだ濃密な空気に胸が詰まりそうになる。
思えばこうしてひとりで真夜中に心霊スポットに行くなんて、ほとんどないことだ。
たいてい、くだんのオカルト道の師匠と一緒だった。
彼はその心霊スポットの本来のスペック以上のものを引き出す実に迷惑な存在だったが、その背中を追いかけているだけで俺は暗闇に足を踏み出すことができた。
怖いものだらけだった。けれど怖いものなんてなかった。
ザザザザザ……
不吉な音とともに風が草を薙いだ。
後ろは振り返りたくない。自然、足早になる。
こういう足元がよく見えない場所で、俺が思うのは小さなころから同じ。誰かに足を掴まれたらどうしよう、という妄想だった。
風呂場で髪を洗っているときに目をつぶるのが恐ろしいように、人間は目に見えない空間を恐れている。
自分という観察者のいない場所では、誰も《ありえないこと》など保証してくれないからだ。
最後の矢印が見えた。二股にわかれた木の根元。
俺は深呼吸をして、お尻のポケットに差し込んだ愛用のハサミをジーンズ越しに確認する。
懐中電灯の明かりに、一瞬人影が見えた気がした。
ドキっとしたがもう一度ゆっくりと照らして見ると、地蔵らしき黒い頭が闇に浮かび上がってきた。
ひとりで来なければいけないということは、他人に見られてはいけないということだ。
そしてそこで行われる刃物を使った呪い……
丑の刻参りと構造が似ている。
女子高生がするようなおまじないとは、少し毛色が違う。
今更そんなことを思ったが、足が動かなくなりそうだったので脳裏から振り払う。
周囲を観察し、少し斜面になった部分を下るものの崖ではないことを確認する。
ゆっくりと、藪が途切れた場所から回りこむと、山中に異様とも思える方形の人工の空間が現れた。
雑草が生い茂っているとはいえ、踏み固められた赤土の地表がぽっかりと目の前にある。
リィリィという虫の音が聞こえるなかをゆっくりと進むと、斜面に沿うようにひっそりと立つ影が視線の端に入った。
懐中電灯のスイッチを切り、深呼吸をする。
やっぱり帰ろうと思う。
心臓の音を聞く。
目を閉じる。
覚悟する。
何歩か靴の裏を引きずるように進むと、懐中電灯をポケットに無理やりねじ込んで両手を恐る恐る前に突き出す。
急に空気がねとつくように感じられ、息苦しくなる。
あのコーヒーショップで覚えた嫌な感じを思いだすまいとして、まさにそのせいで思い出してしまう。
あれは霊なんかとは違う、もっとわからないものなのだと思う。その根源に今、近づきつつあった。
足が止まりそうになったところで、左手が硬いものに触った。
内臓のあたりに嫌な感じがズーンと落ちてくる。
それでも両手で、胸の前にある石のざらついた感触を確かめる。
これが左端の地蔵の頭のはずだった。
赤ちゃんの頭くらいの大きさだ。
なにか別の恐怖心がもたげてくるような気がして、すぐに手を離す。
次の地蔵までは3歩と離れていない。
爪先が地蔵の胴体らしきものに当たり、手探りをするとさっきと同じざらついた手触りが手のひらに入ってきた。
次だ。
もう、余計なことを考えないようにして目を閉じたまま次の場所へ手を伸ばす。
ひんやりしたものに指先が触れた。
なにか変だ。
なにも変なところがない。
目を開けたい衝動に駆られる。苔むしているのではなかったのだろうか?
髪の毛なんて生えていない。
そう思ったとき、右半身がなにかの気配を捉えた。目を閉じていてもわかる。
たぶん、かすかな風の流れでそう感じるのだろう。
数がおかしくないか、という疑念を封じ込めてソロソロとさらに右側に手を伸ばした。
次の瞬間、右手が嫌なものに触れた。
夜気に湿った、小さなあたま。
苔じゃないのはすぐにわかった。
髪の毛が、生えている。
混乱が恐怖心に点火する前に俺は両手をソレから離し、ジーンズの後ろポケットからハサミを取り出した。
愛用というほどでもないが、家にあるハサミというとこれだけだ。
屈み込んで、地蔵の前にある石造りの小さな台を探り当て、ハサミを置いた。
そしてあらかじめ決めてあった名前を3度唱える。
俺にストーキングまがいのことをしていた女の名前だった。
音響にこのおまじないのことを聞いたときから、その効力を解くには、上書きするしかないのではないかと思っていた。根拠はない。カンだ。
そして上書きされるにうってつけの存在がいた。失敗でもいい。そしてこのおまじないが、本当は別の意味であったとしても、それでもよかった。
目の前にあるものがなんなのか、わかりたくなかった。
俺は左を向くと懐中電灯をつけ、目を開けて脱兎のごとく逃げ出した。
這い上がるように斜面を駆け上り、後ろを振り返らず走った。
山鳩の鳴き声が追いかけてくる。草いきれが鼻にこびりつく。閉じ込めていた畏怖の心が、奇声をあげているような気がした。
よっつめだった。
俺が数え間違えたのか、それとも地蔵ははじめから4体あって、音響が3体だとウソをついたのか。
それともそれは、目を閉じないと見つからない、何か得体の知れないものだったのか……
もと来た道を逆走していると、懐中電灯の光が道の真ん中に赤いものを反射した。
赤いハサミだった。
一瞬躊躇したあと、拾い上げる。ノートの切れ端に描かれたイラストにそっくりだ。
山に入ったときとは別のハサミをジーンズのポケットに納めて、俺は帰途を急いだ。
耳は、聞こえるはずのないショキショキという音の幻を湿った風の中にとらえていた。
その次の日、俺はこの前のコーヒーショップでひとり音響を待っていた。
たぶん解決した。
そう言って呼び出したのだが、あながち間違いでもないように思う。この手にある赤いハサミがその象徴のような気がした。
店内の光度を抑えた照明にそっとかざしてみる。
一体なぜ地蔵に供えられたはずのハサミがあそこに落ちていたのか、俺には知るよしもなかったがこうして見ると何事ごともないただのありふれたハサミにしか見えなかった。
「遅せぇな」
独り言をいってしまったことに気づいて周囲を気にする。
さすがにコーヒーショップにハサミを持った男がひとりでいては気持ちが悪いだろう。
そう思って一応念のためにカモフラージュ用の文房具一式と大学ノートを脇に置いてあった。
ふと思いついて、汗をかいたコーラのグラスを持ち上げ、白い紙でできたコースターをつまんだ。
右手で持ったハサミを円のふちにあてがう。
深い意図があったわけではない。ただ前回、音響が破いたコースターの切れ端に残っていた鋭利な断面が気になっていたからだった。
軽く力を込めて、刃を噛み合わせる。
そのとき、予想外のことが起きた。
ぐにょりという鈍い感触とともに、コースターが切れもせずハサミの刃の間に変形して挟まったのだ。
首筋にあたりがゾワっとした。
ギチョン。という音をさせてハサミを開く。
コースターがぽとりとテーブルの上に落ちた。確かに少し厚みがあるとはいえ、ただの紙なのだ。切れないはずはない。
もう一度ハサミをよく見てみる。
そういえば持ったときに何か違和感があった。
空中でチョキチョキと素振りをしてみると、その正体に気づいた。
俺は左手にハサミを持ち替えてもう一度コースターに刃をたてる。こんどはシューッという小気味よい音とともに白い紙に切れ目が入っていった。
"左利き"用だ。
あるのは知っていたが、現物を見たのははじめてだった。俺は手元の赤いハサミとコースターとを見比べながら、笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。
あのとき、音響は右の平手で俺の頬を叩いた。
怖がらせるような意地の悪いことを言った俺を反射的に叩いてしまった彼女に、負い目を持ったのがこの無謀な冒険のきっかけだ。
クールそうな彼女にそんなことをさせてしまったという負い目。
だが、あのときの彼女にはとっさに利き腕ではない方を繰り出すだけの、理性の働きが確かにあったのだった。
はめられたのかも知れない。
そういえば、ノートに地図を描く時の彼女は左手でペンを握っていた気がする。
あの平手で俺がなにを感じるか、計算ずくだったとするなら……
そのときはじめて俺は、あの暗い服を好む少女に好奇以上の興味を持ったのだった。
1週間後、例のオカルト道の師匠と仰ぐ大学の先輩と会う機会があった。
お互いの近況を交換し合うなかで、俺は鋏様の話と《黒い手》騒動の時の少女と再び会ったことを話した。
師匠はニヤニヤと聞いていたが、口を開いたかと思うと「僕ならその鋏様とやらの髪の毛、ハサミでジョキジョキにしてやったのに」と言い放ち、俺は心底この人に頼らなくてよかったと胸をなでおろした。
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