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世界史で感動した話、泣けた話を集めるスレ
Part2


24 :世界@名無史さん:02/11/10 02:20
キューバ建国の英雄、エルネスト・チェ・ゲバラの話。
彼は2回結婚しているが、ある時、最初に結婚した妻のいるアルゼンチンにひょっこり現れた。
そして妻に頼んだ事は「一度でいいから娘に合わせてほしい」
妻が出した条件は「貴方が娘の父親ということを絶対に言わないこと」
そしてゲバラ、変装してレストランで娘とあう。
娘は「死んだお父さんの古い友人が貴方に会いたがってる」と母から言われていた。
アルゼンチン訛りのスペイン語や、ワインをソーダで割って飲むという
アルゼンチン人独特の習慣をするゲバラを見て、
娘は「この人が本当のお父さんに違いない」と思った。
しかし、遂に「お父さん」と呼ぶ事は叶わなかった。
この話を読んだ時、正直涙が止まりませんでした。長くてゴメン。

25 :世界@名無史さん:02/11/10 02:30
ひうらさんの思ひ出 (帝國海軍は断じて同胞を救ふ)
 日本海軍は北洋警備ー北洋漁業保護の為に、最旧式駆逐艦
を以て編成する駆逐隊の一隊(定数四隻 司令は大佐または
古参の中佐)を毎シーズン派遣しておりました
 國民性なのでせうか、蘇聯は昔から露骨な國で、我が駆逐隊が
漁業海域に到達し警備任務に就くや、日頃横暴なる蘇聯艦艇も、
途端に猫の如く大人しくなりました
 だから駆逐隊は毎度漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、
必要に応じ、戦隊若くは艦隊を神速に派遣することも行はれたやうです
 父の友人に「ひうらさん」といふ越後人がありました
 生きて居られればゆうに百歳超えませう
 明治の御代に雪の越後を後にして、刻苦勉励、数多辛酸を嘗め、
戦後は小金持になり、銭湯など経営して世を終へられました
 この御仁が、大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗組んで
北洋漁業に従事してゐた時の話です
 氷濤の中、果敢に操業してゐた或日、突然蘇聯の警備艦艇に
謂れ無く拿捕され、乗組員一同、浦塩に聯行、抑留されました
 此処までは今日と同じです

26 :世界@名無史さん:02/11/10 02:30
 取調べは惨たらしいもので、生きて再び日の目を拝めるかと
思った程ださうですありもせぬ犯罪事實の自白を強要され、
半殺し状態で朝を迎へ、再び鐵格子の中から引き出されました
 いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の
態度が掌を返す如くに豹変し、捜査は打切り、無罪放免
 露西亜紅茶まで振舞はれてにこやかに釈放するではありませんか
解き放たれたひうらさん達は警察署だか獄舎だかの外へ出ました
 天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺望が
開けているものです、半信半疑の儘、ともかくも港へ向はむと
ふらつく脚を海へ向けました
 その瞬間、何故、助かったかが判りました
 沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、
各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百
幾千發ぞ
 陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを
消滅させんばかりの圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和國
聯邦を威圧して呉れてゐたのです
 旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう
 皆、感泣しました
 鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで‥‥
 ひうらさんは無事、日本に帰りました
 取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大國相手の
戦争をも辞せず、瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖國日本
の親心に酬いる為にも、なほ一層仕事に励み、三代の御代を
生き抜き、東京都江戸川区小岩の自邸で、四半世紀ほど前に大往生
を遂げられました
 勤倹貯蓄、關東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、靴底だけ
張替へ張替へして生涯穿き続けました
「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」

30 :世界@名無史さん:02/11/10 03:26
>>25-26
本来、国家はこうあるべきだよな
NGOの奴とか拉致者とかでたとき
海自がいきゃよかったんだよ

33 :世界@名無史さん:02/11/10 05:20
泣けるとまではいかないが
流血に満ちた南北朝時代の
少しほっとする話
北魏の節閔帝の逸話.
はるばるペルシャから獅子が献上された。
帝曰く「生き物は自然のままがよい。返せ」と。
魏の使者ははるばるペルシャまで獅子を返すことになった。
しかし猛獣を連れての長旅。
苦労は並みのものではなかっただろう。
遂に耐えかねて獅子を殺してしまった。
有司は違勅の罪に問おうとした。
帝曰く「獣の為に人を損なってはならぬ」と。
使者は釈放された。

49 :世界@名無史さん:02/11/24 18:13
また南北朝の話
侯景の乱の時の話.梁の武帝崩御の後、侯景軍は
傀儡として即位させた簡文帝の皇太子を戦場に同行させていた。
皇帝は都で侯景軍に幽閉されていた。
武帝の皇子、湘東王の軍が迫り、侯景軍は大混乱に陥った.
乱戦の中、船に乗っていた皇太子は近臣から
今のうちに脱出を、と勧められる.
皇太子曰く「私が今逃げ出すことは、賊から逃げるのではなく
父上に反逆することだ」そして泣きながら、侯景軍に同行するよう命じた。
後に簡文帝は廃位され、帝も皇太子も殺された.

62 :世界@名無史さん:02/12/10 02:55
東ローマ帝国最後の皇帝。
西欧諸国に裏切られ、領地と兵士は度重なる戦役で壊滅。
相手は当時世界最高の軍隊を率いるサラセン。兵力差は1対10以上。
コンスタンティノープルの壁が最新兵器の大砲で破壊された後、
教会に女子供、老人を集めて火を放った。
そして、残った兵士と共に最後の突撃を行って行方不明になる。
相手のサラセンもその後は復興に尽くすような君主だったから、よけい悲しい。
滅びる国の君主は愚かではなくて、ただ生まれたときが悪かっただけ、と激しく思った。

64 :恥ずかしい話ですが:02/12/12 00:49
>>62
謹んで訂正させていただきます
サラセンではなくて、「トルコ」です
何で間違ってるんだか・・・

65 :世界@名無史さん:02/12/12 07:26
>>64
「余の首を刎ねるキリスト教徒は誰かいないのか」だっけ?

63 :世界@名無史さん:02/12/10 08:32
東晋で反乱を企てた梟雄王敦
首都建康に幾度となく攻撃を繰り返すが、やがて病に倒れる
自分だからこそ朝廷に一矢報いることが出来たのだ、周囲の将に遺言を残す
おまえらじゃ無理だから諦めな、と
配下の者たちは敦の兄、含を祭り上げ朝廷への反抗を続ける
「畜生!」と思いつつ、臨終間際の床から抜ける王敦
甲冑を身に着け、軍を指揮しようと幕舎を出るはずが遂に力尽きる
反乱の理由は東晋王朝の腑抜けっぷりってのが、何ともやるせない
祖逖の北伐に協力しない朝廷の弱腰に愛想を尽かし
祖逖死後に、自分を遮るものはもういないと颯爽と兵を起こした
何とも無念だ

67 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :02/12/25 10:32
日本史なのでさげます。平安時代、ある比叡山の高僧が帝の病平癒の祈祷のために
嫌々ながらも呼び出されたことがあった。
その途中ふと道ばたを見ると病を得て捨てられた女が目についた。慌てて駆け寄る
僧。朝廷の使者は驚いて「そんな死にかけはほうっておいて早く」と言ったが、僧
は聞き入れなかった。
「帝には他にも何人も頼もしい護持僧がおられるではありませんか。しかしこの女
には私しか救おうという者が居ないのです。」
そう言って女に食べたいものを聞き、その場で衣を売って魚などを小さくちぎって
食べさせてやった。手当の甲斐あって女は全快し、それをお聞きになられた帝から
のおとがめも無かったという。

74 :朱元璋:03/01/22 05:38
明の崇禎帝
崇禎十七年三月十八日
宦官曹化淳が彰儀門を開いて李自成軍を城内に引き入れた。
覚悟を決めた帝は太子、永王、定王の三人の息子を
平民の服に着替えさせ外戚の周家と田家に逃れさせ、皇后周氏に自決を命じた。
周皇后は従容として自決し、袁妃以下側室たちも次々と自決した。(袁妃は自決に失敗)
帝はそれを見届けると、十五歳の娘、長平公主のいる寿寧宮に行き、泣いてすがる
長平公主を“汝、何故にわが家に生まれたるか!”と泣きながら斬り捨て、その足で
今度は、六歳になる娘、昭仁公主のいる昭仁宮に行きこれを刺殺した。
十九日早朝
帝自ら警鐘を鳴らすが、応ずる者無く宦官の王承恩のみを従えて紫禁城の北の景山にむかい
景山内にある寿皇亭にて自縊。享年三十四歳。
白衣の襟に“賊をして朕の屍分け裂くに任せん。文官尽く皆殺死するも可なり。
ただ御陵を壊すなかれ。我が百姓を一人たりとも傷つくるなかれ。“と記されていた言う。

80 :世界@名無史さん:03/02/16 19:04
>>74
王承恩って宦官は忠臣だね

83 :世界@名無史さん:03/03/06 03:41
農産物の一部自由化が決まった時、宗男の地元・十勝では農協
などによる大反対決起集会が行われていた。
田舎では農協票の取り込みは必須。ここで農協のオヤジのハー
トをがっちりつかむかが焦点となっていた。集会に招かれた国
会議員は永遠のライバル中川と宗男。
まずは中川の演説からだった。その日はあいにくの寒さで氷点
下20度はいっているのではないかと思われた。東大出のインテ
リ中川。コートを何枚も着込みいかにもお義理で「自由化には
反対であります」とぼそぼそと述べた。
対して宗男。まずは背広の上着を脱ぎ捨て「外は寒いが私の気
持ちは熱い!」と大声で叫び「輸入自由化に対する気持ちで私
の心は怒りで燃えているんだ!」
氷点下20度の中、服を脱ぎ捨てとっつぁんシャツ一枚になっ
た宗男。
「やっぱり宗男センセイだべ」と農協のオヤジのハートをがっ
ちりつかんだ。

92 :世界@名無史さん:03/03/23 00:32
われらは危険を敢えてせり。
われらはその危険なることを承知しいたり。
ただ事情がわれらに与せざりしなり。
さればられらは何ら不満の意を表すべきいわれなし。
ただ神の御心に頭を垂るるのみ。
しかもなお最後まで最善をつくさんと決意しおれり。
イギリスの南極探検隊を率い、
極点到達競争でアムンゼンに敗れた隊長スコットの遺書より。
彼らは最後のデポ(貯蔵庫)の20km手前で、
嵐の為行動の自由を失い全滅した。

106 :Krt:03/06/11 02:02
愛人ハミルトン夫人エマとネルソン提督との間に生まれた子供は
部下が恋人に産ませた子をネルソンが引き受けたという体裁をとり、
その名もホレイシア・ネルソン・トムソンと名付けられて里子に出された。
だが、ネルソンはこれきりホレイシアのことを忘れてしまったわけではない。
トラファルガー海戦の前、ネルソンはエマとホレイシアのために屋敷を買い、
さらにホレイシア名義で8000ポンドの信託預金までして、エマにはこの利息で
ホレイシアを養育するよう言い残した後、はじめて出征したのである。
そして1805年10月21日、天下分け目のトラファルガー海戦は英軍勝利に終わったが
軍艦ヴィクトリーの船上では致命傷を負ったネルソンが最後の時を迎えていた。
ネルソンは自らの死を悟ったが、心残りは幼いホレイシアの将来だったらしい。
彼が信頼する副官ハーディにホレイシアの後事を託した後、苦しい息の下で
呟いた最後の言葉があの有名な台詞だったという。
"Thank God, I have done My Duty."

107 :世界@名無史さん:03/06/11 05:00
1943年2月、スターリングラードを奪回したソ連軍は、
ハリコフに向けて進軍していた。
ハリコフを守るのはSS大将パウル・ハウサー。
63歳のこの老将には、スターリングラードのパウルス元帥と同様に
「最後の一兵まで死守すべし」との総統命令が下っていた。
ハリコフのSS軍団にスターリングラードの悲劇が訪れようとしていた、
まさにその時であった。
「全師団に撤退を命令する」
「大将閣下、総統のご命令によれば・・・」
「わたしのような老人にはそれでかまわん。
 だが、表にいる若者達にそれを強いることはできぬのだ。
 直ちにわたしの命令を軍団に通達したまえ」
総統命令を無視すれば、軍法会議に掛けられる事は確実であった。
しかし、ハウサー大将は部下を救うため、撤退に踏み切ったのである。
軍団は96kmの距離を突破し、間一髪で包囲殲滅の危機を免れた。

112 :例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/06/13 23:56
第十代テンプル騎士団総長リドフォール
第三回エジプト遠征で、無謀な突撃を敢行し、聖ヨハネ騎士団総長などを戦死させたが、
自身は生き残る。
ハッティーンの戦いで、イェルサレム国王ギーをそそのかして、無謀な野戦を決行させて、
自身はサラディンに捕虜にされ、イェルサレムを陥落させられる。
第三回十字軍で、アッコン攻略戦において特攻し、見事落城のきっかけをつくったが、自身は
重傷を負い捕虜となり、そのまま死す。
なーんか憎めないんだよね、コイツ。゚.。つД`).゚。°

113 :例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/06/20 23:01
訂正。
二段目一行目
×>第三回エジプト遠征で
○>アッコン周辺の迎撃戦で
第三回エジプト遠征では、テンプル騎士団従軍拒否したっつーの。

114 :世界@名無史さん:03/07/07 23:42
イタリア王ウンベルト1世がある日お忍びでローマ市内を散策し、あるレストランで食事をして
いるとオーナーが自分にそっくりなことに気づく。その後、王宮に呼び出して聞いてみると、自
分と生年月日、母親の名前、生まれた町が同じであることが判明。意気投合し、その後もしばし
ば呼んだり、遊びに行ったりしていた。
ある日、そのレストランオーナーをオペラに招待していたがなかなか来ない。側近に呼びに行か
せるとオーナーはその日の朝拳銃の手入れをしていたら暴発して死んでしまったとのこと。国王
は「そうかそれは残念な、余も葬儀に出席する。」と言った。
しかし国王は葬儀に出席できなかった。なぜならその直後観劇中に銃撃されて死亡したからだ。

116 :世界@名無史さん:03/07/08 04:18
ジョセフィーヌの従姉妹、エイメとその息子スルタンマフムト2世の話。
エイメは留学先?のパリに帰る途中に海賊にさらわれてトルコに売られ、
后になってマフムト2世を産む。
当時のトルコは、かつての黄金期を支えたイェニチェリ軍団が逆に足かせとなって、
近代化に遅れていた。そこでマフムト2世によるイェニチェリ排除の苦しい戦いが
始まる。当時ヨーロッパはナポレオン戦争の真っ最中。
母后エイメは当初、フランスと同盟を結んでコンスタンティノープルのイギリス艦隊
を追い出したが、ジョセフィーヌを捨てたナポレオンに恨みを持っていた。
また、トルコはロシア軍8万と戦争中だったが、ナポレオンのモスクワ侵攻と同時に
攻められていた土地を割譲してロシアと講和。このロシア軍8万がフランス軍の退路を
ふさいだことによりナポレオンあぼーん。

117 :連続スマソ:03/07/08 04:41
その後もエイメは、フランス人としてではなく、あくまでスルタンの母としてマフムト2世
を助け、イスラム教に改宗しキリスト教徒としての振る舞いは一切無かった。
そんなエイメが臨終の間際、マフムト2世を部屋に呼んだ。
トルコでは母后と言えどエイメは奴隷の身分、スルタンが看取ることは許されない。
ましてトルコを牛耳っているイェニチェリ軍との対決により、地位や命すら微妙な立場であった
マフムト2世にとって、これは物凄く危険なことだった。
枕元に立ったスルタンに母は一言、ミサをあげて欲しい。ばれれば確実にあぼーんの
危険を冒して、スルタンはコンスタンティノープルの教会へ使いをやり、枕元で
ミサをあげてやりましたとさ。
その後、マフムト2世は治世中に領土が1/3に減少しながらも、内憂外患の危機を
乗り越え後のトルコ共和国の礎を築き、後世に称えられました。おしまい、おしまい。
 
…始めてこの話を知ったときは感動したが、こうして自分で書いてみると…

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